2004年12月28日

戦い

人生は戦いです。戦っている間は負けません。人生は争いです。争っている間は勝てません。勝ちも負けもないことが生きるってことなんです。
勝ちたければ逝け。負けたければ死ね。しかし誰が勝ち負けなんかつけてやるか。僕はただ勝ちもせず、負けもせず、人生が終わるその瞬間まで戦いを持続してやる。しかし、戦うことは疲れる。勝ちたくなる、負けたくなる、死にたくなる。だから苦しくなったら、遊ぶ。気分がまぎれる。疲れたら酒を飲む。意識が途絶える。戦いから逃れたような気がする。しかしいつだって僕は生き続けている。負けてもいないし、勝ってもいない。だから覚悟を決めた。死とは終わりのことだ。生とは極限まで行き着くことだ。学問とは限度を知ることだ。限界を知ることで初めて人間は生きられるのだ。限度を学べ。限界から学べ。つねに自分の極限を意識しろ。生き続けろ。戦い続けろ。 人生は戦いだ。戦っている間は負けない。人生は争いだ。争っている間は勝てない。勝ちも負けもないことが生きるってことなんだ。

戯言だけどね。などというほうがよほど戯言か。
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2004年12月24日

morals (2) あるいは根源的なコミュニケーションへの不安を感じて

 注・これは「morals」という文章の続きとして書かれました。時間的に余裕があれば、ぜひ前回の文章と併読してください。

  前回の「morals」では奇麗ごとを並べ立てた机上の空論のようだと思った方もいるでしょう。いったい自己の為に行うとはなんなのか。自己と他者の関係を自覚せよとはいったいどんな意味なのか。このような疑問をお持ちになった方もとうぜんいることでしょう。だから今回は具体的な例を挙げて自己の他者との関係を分析してみましょう。そこから自己のために行うとは何なのかを可能な限り論理的に導いてみたいと思います。

 私たちはつねにコミュニケーションの不安を抱えています。これは他者に自分の思ったことが正確に伝わっているのだろうかという不安です。僕が伝えたことを他者がきちんと理解したのだろうかという不安です。たぶん、このような不安を誰もが一度は悩まされる問題でしょう。相手と繋がっているのだろうか。その不安は思うことはごくに自然なことです。何かに満たされているときは一時的にその事実を忘れられます。しかしふと何かのきっかけでその事実に気づいてしまう瞬間をあなたは何回か経験したことがあるでしょう。もしそのようなことを考えたことも無いとおっしゃる方がいるならば、それはとても幸せなことです。きっとそようなかたには私の文章を読む必要はないでしょう。なぜならその人は現状がとても満たされているのでしょう。私はその状況を悪いとは思いません。良いとも思いません。僕が否定や肯定できる事柄ではないからです。ただ私はその状態に留まる人に対して、その能天気さに怒りを覚え、同時にその幸福感を羨ましいと思うでしょう。

 では本題に入りましょう。ここでまず私たちは一つの真実を確認しましょう。人と人はけして理解しあうことができないという真実を思い出しましょう。いつの時代も言われてきたお決まりのテーゼですが、ではなぜ私たちは理解しあうことができないのでしょうか。ここでは話を判りやすくするために細かいところを端折りますが、端的に言って互いにコミュニケーションをとるために私たちは言葉や文章といった言語に頼ります。ここに全ての問題があります。Aさんが書いた文章Aを、Bさんに読ませたとします。Bさんが文章Aを読むと、それは必然的にBさんの解釈が入り混じった文章Bとして再構成するのです。文章AはBさんに読まれることで文章Bへと成らざるを得ません。ここでAさんがある主張をもって文章Aを書いたのに、Bさんは文章Bを読んでるのです。これでは互いに理解など不可能なのです。まずAさんが書いた文章A自体がAさんのなかにあった主張Aを文章化したものなのです。つまり主張Aは文章Aとまずこの情報を写し取る時点ですでに内容が劣化しているのです。さらに劣化した主張Aをともなった文章AをBさんに読ますとどうなるでしょうか。いうまでもなく、Bさんに読まれることで主張Aはさらに情報劣化した文章Bに変化します。だから私たちは絶えず相手の意見を確認しあいながら、話し合いを進める努力をします。しかし相手の意見を確認するという作業自体に、さまざまに情報劣化を必然的に伴わざるを得ません。相手にきちんと情報が伝わったかと確認する作業自体が、すでに劣化した情報として相手に伝わるのです。Aさんが文章Aの内容がきちんとBさんに伝わったか確認を取ろうと文章Cを書いたとします。しかしその文章CはBさんに読まれると同時に文章Dに変化するのです。内容がきちんと伝わったかという作業がまた劣化した情報として伝わります。これを無限に繰り返す行為がコミュニケーションであり、同時に人と人が理解できないゆえんであります。

 私たちはこの事実に気づいていなくても、直感的に理解しています。だからこそつねに私たちはコミュニケーションの不安にさいなむのです。相手に伝えた情報が本当に伝わったか不安になるのです。しかし普段の私たちはその不安に気づかないふりをします。互いに情報が伝わったものとして自分の勝手な解釈で納得します。だからこそ、ときどき感じる不安を簡単に忘れてしまえるのです。相手がコミュニケーションの不安に悩まされたとき、その不安を忘れている私たちは平然と相手の主張を切って捨てます。たとえばときどき私たちは、同じことを繰り返し話す人に出会います。その人の必死さは十分に判るのですが、私たちは何度も聞かされてうんざりします。ひとが同じことを二度言ったときに、私たちは平然と「それさっき聞いたよ」と言ってしまいますし、相手もこの言葉を言うでしょう。それさっきも聞いたよ。この言葉は、相手のことを考えていない人間の発言です。「それさっきも聞いた」とは、私たちが根本的に抱えざるを得ないコミュニケーションの不安を忘れた人の発言なのです。私たちは、「それさっきも聞いた」と言われたとき、どうにもいたたまれない気分になります。自分は、同じ発言を繰り返したということを勿論理解しいますが、根源的な情報伝達の不安が私たちに同じ言葉を発せさせるのです。自分の発言をきちんと理解をしてもらったのか、それが不安だからこそ同じ言葉を繰り返してしまいます。それなのに「それさっきも聞いた」という人は、相手が感じている不安を無視して、ただ自分の都合を押し付けているのです。自分もコミュニケーションの不安を抱えているはずなのに、そんなことを忘れて他人に対して、「それさっきも聞いた」と言ってしまいます。この人は相手がなぜ同じ言葉を繰り返すかを理解していないのです。相手のことを考えていません。当事者たる自分の状況を考えずに、相手に無粋な言葉を投げつけます。この人はコミュニケーションの不安を感じた自分自身をたいして重要なものと見ていないのです。自分がどのように相手に伝達されたか、という不安に対して無自覚なのです。多分その人もコミュニケーションの不安に悩まされてことはあっても、当事者でなくなれば、その不安をすぐに忘れるのです。これは私たちにも同じように当てはまります。なぜなら私たちも人に向かって「それさっき聞いたよ」と言ってしまうのですから。コミュニケーションの不安を感じた私たちは、その当事者でなければ、「それさっき聞いた」と相手を切り捨てます。

 先ほど確認したとおり私たちは互いを理解しあうことはできません。だから何とかして理解しようと努力します。しかし普段の私たちはそのことを忘れて互いに理解しあっているという勝手な解釈の中で当然のようにコミュニケーションを行うのです。つまり私たちは本質的な真実から目をそらし、手前勝手な理解で満足しています。これが他者だけではなく、自分も蔑ろにしているという意味です。他者を勝手に理解することで妥協する。それは同時に相手が自分を勝手に理解することも無意識に容認しているのです。これはコミュニケーションの不安に対して無自覚なのです。自分が相手をどのように理解するかなんて勝手だ、というときそれは自分も蔑ろにしているのです。だからこそ他者を蔑ろにできるのです。コミュニケーションの不安を明確に理解した人は、いくら言葉を費やしても自分が理解されることがないと判っているので、必然的に言葉を多く増やしてしまいます。例え相手に100パーセント理解してもらわなくても、せても90パーセントでも理解してもらおうと頑張ります。相手に正確な内容がきちんと伝わらなくても、あいてに内容が伝わることは、それが劣化した情報でも内容が伝わることは、歴然たる事実なのです。だからせめて出来るだけ多く自分の主張を理解してもらおうと多く言葉を費やすのです。主張の内容を90パーセント以上相手に理解してもらいたいから、多くの文章を書き綴ります。相手のためを思って書くのではなく、自分を多く理解してもらおうという自己を大切にする感情によって書きます。自分のために物事を行うことが、他人のためにもなるのです。だからこそ、私は繰り返し、自分を蔑ろにするものは他人を蔑ろにすると、他人を蔑ろにするものは自分を蔑ろにしていると、この二つを言ってきたのです。だからこそ、前回の「morals」という文章では、「倫理とは、己の内から湧き出すものだ。けして学んだり教えたり押し付けるものではない。ただ自己と他者の関係を自覚したときに、倫理は己のうちより自然と生み出ずる」といったのです。倫理とは自己を大切にする感情なのです。それが他人を大切にすることに繋がるのです。僕は自己と他者を大切に扱う感情こそを倫理と呼びたいのです。倫理。それは自己と他者を思いやることが出来たときに、はじめて己の内から自然に湧き出るのです。いまの僕は確信して、そのことをあなたたちに伝えたいのです。あなたたちがどのくらい私の主張を理解したか、私の及びのつかぬところにあります。しかし、わたしは私の主張を出来るだけ多く理解してもらうために、丁寧に、かつ冗長といわれようともわかりやすくこの文章を書きました。少なくともそう心がけたました。あなたの己の内より倫理が湧き出ることを私は心より祈ります。なぜならあなたが己の倫理を見つけ出すことは、あなたが私の主張をきちんと理解したことの証明に他ならないからです。私の文章をあなたに理解して欲しいから、私はあなたが倫理を見つけ出しすことを願うのです。私はあなたちに理解して欲しいという私自身の欲望の為にこの文章を書きました。自分のために行うこと。それは他人の為に繋がる。


ただし。それが他人の為に繋がるとしても、本当に他人のためになるとは限らない。他者の為に行うことを、他人は平気で否定する。他人は絶望的に自分の都合の良いことしか理解しない。いくら真実を語っても、自身の真実と食い違うなら、否定するし、判りもしない。自分が人を否定し、傷つけたことにさえ気づかない。ざんねーん。他者への求愛ダンスも無駄無駄無駄無駄無駄!! ばーか。だれがそれを真実だと決めたんだ。結局自分だろ。

 

 
 あとAさんが文章Aを書いて、それをBさんに読ませるという発想は、以前にどこかのHPで紹介されていたものです。僕はそれを拝借しました。その理論自体はもともと東浩紀氏が提唱した誤送という概念だったように、思うような思わないような。それとも郵便的不安だったかな。すみません。正直わかりません。だからせめてどこかのHPで見て、僕自身はおそれを理解したに過ぎないと断っておきたかったのです。というか、本当のところこの解釈が正解なのかわかりません。私的にはけっこうこの解釈に自信を持っています。でももしかして手前勝手な解釈を行った可能性も否めません。というか基本的におれは馬鹿ですから。頭悪いですから。どなたか頭の良い方、てぃーちみーぷりーず。そう簡単に人にモノを尋ねるなよ、などと思った方がいらっしゃったら、そこから一歩前に進んだあと、歯を食いしばってじっと耐えてください。殺します。いや自分で学ぶ努力も一応しますよもちろん。あー。人生日々精進っすね。というかいま読み直したけど、論理の展開がだめだめですね。いいたいことは判るのだけれど、しかしそことそこで論理は繋がらないでしょう、というところが平然と繋がっている。というか、作ったと

「自己突っ込み。まるで文章を多く書く人が偉いみたいじゃん。少ない文章でずばっと的確に物事を表現できる人だっているよ。そういう人はたいがい頭の良いか、文章力がある人だとおもうんだけど、ここで、君が想定しているのは、けっきょく文章力も無く、頭も悪い自分のことなんだ。才能の無さが、コミュニケーションの不安に繋がっているんだ。だから言葉を多く費やすだけなんだ。君は文章を多く書く人間が特権的な位置へと押し上げたいんだ。少ない才能を文章量でカバーする今の事態を、君は重要なものに捉えたいんだ。それをコミュニケーションの不安という理由をつけて語るなど、笑止千万。所詮君は西尾維新の言葉に踊らされただけだな。ップ。まあ維新は俺たちより頭が何倍もいいし、才能があるけどよ。」

「おいおい。まあその指摘は多少認めるよ。でも今回の「morals」は 感動的な良い文章に出来たと思ったのに、その余韻がぶち壊しだYO! てめえざけんなよ!! 口に釘バット突っ込んでそのまま回転させて歯という歯を全部粉砕するぞおらア!! 責任とれYO!YO!COME!」

「君が一番余韻をぶち壊してますがな」

追記
読み直したら別に大した出来の文章じゃなかったよ。というか酷すぎる。まじで泣きたくなってきた。こりゃ、リライトものだな。本当に日々精進だ。頭が良くなりたい良くなりたい。頭が良くなりたい。あと関係ないけど。

http://kiri.jblog.org/archives/001277.html

ふむふむ。界隈で有名な切込隊長の文章。んー、いまの僕にはぜんぜん心に響かないや。これは別に批判しているわけではありません。ただ事実として。

《よく分からん。無能だといわれたくない、それはよしとしよう、だがしかしいきなり能力を発揮できる人間は少ない、だから能力のあるなしにかかわらず何かを手がけてみる、仕組みを知るために継続してやってみる、認められるかどうかはともかく、自分なりに形にしてみる、という気持ちはないのだろうか。それが悪いといっているわけではない、ささやかな価値観をはぐくんでいて、それが社会のそれと違うというのは、いまに始まったことではない、誰もが経験していることだ。で、境遇や性格によっては、一人ではそのハードルを超えられない人が一定の割合でいるということだろう。

 しかしだ。しかしだよ。そういった自分一人で未来を切り拓く力が弱かったとしても、自分のために超えられないかわりに、誰かのために、もしくは何かのために力を尽くすということはできないものなのか。例えば、親のために、家族のために、自分と笑って語らってくれる友人のために、共通の趣味を持つ同好の士のために、好いた異性のために、欲しいもののために、組織のために、民族や国家のためにといった、目的を自分以外に持つやり方はしないものなんだろうか。

 嫌われたくない、裏切りたくないといった基本的な自己防衛については分かる。私だって、語りかけて拒否的な反応されたらどうしようとか日常的に思っている。それが厭だから、わざと忙しくしているというのもあるかもしれない。友達ができなくて、無視されるというのはつらいことだ。でもだな。何かを為すために、継続して何かを手がけていく、続けていくなかで見つけられるものは必ずあるのだと、そう思うことはできないのだろうか。》(切込隊長)

いやほんとのこの人は頭のいい人だ。文章力もある。なにより多分この文章を読んだ人が感動で打ち震えるような良い文章だ。でもさ、これを真に受けない方いいと思う。切込隊長が言っていることは結局は理想なんだ。たとえば、環境問題は悪いことだから改善しなければならない。これが理想だ。しかし、実際には環境問題はけして解決しない。解決したいと思う理想を持ってもそれはけして達成されないんだ。目的を自分以外の為に持てといわれても、それが現実に出来ないから苦しんでいるんじゃないのか。他人のために何かを行いと思っていても、それができないから苦しんでいるんじゃないのか。どんなに頑張っても、けして他人の為には達成できないんないと。ただ自分の中で達成したという満足を得るだけなんだ。満足や苦悩は一見全く違うもののように思えるけど、意外とその両者は近い位置にあるんじゃないかと思う。だからこそ、ぼくは、上記の文章で、ただ自分のためにこそ行えといったんだ。結局達成できる理想など、自分の中のことでしかない。それを外に照らし合わせると、かみ合うこともあるし、裏切られることもある。その繰り返しが人生なんだ。理想は自分の中では達成可能だ。しかし、それを外にまで配分することは、成功と失敗の連続だ。しかも成功する可能性は限りなくゼロに近い。これに気づけなければ、いつまでたっても外に向かうことなど出来ない。ただ他人のために行え、友達を見つけろ、と言われても僕は困ってしまう。見つけたい、だけど見つからない。その繰り返しだ。これは自分でどうにかできる問題じゃない。ただ向こう側、そこがどこか判らないけど、どこか遠くから一方的に到来するものがある。そのものを僕らが能動的に手に入れようと頑張ってもどだい不可能なことだ。ただ自分が望むものが向こう側から到来することを、ただ待つだけなんだ。到来するものを待つ間に、僕らは到来するものを迎える準備をしなきゃならない。もしモノが到来しても、それに自分が気づかなければ意味がない。だからこそ、到来するものを迎える準備が必要なんだ。僕らが出来るのは、到来するものを迎える準備だけだ。それが到来するかどうかは、ただ一方的に外部にゆだねられる。切込隊長の文章に覚えた違和感の正体は、外部にある、けして手に入らないものを「続けていけばいつかは手に入る」と主張しているからなのだと思う。僕らが出来ることは、手に入れること続けることじゃなくて、手に入るか判らない、一方的に外部に委ねられたものが到達するための準備をするだけなのに。つまりだ、環境問題をいくら解決しようと自分が頑張っても、それが実際に解決するかは、外部の問題だということ。たしかに続けなければ、解決しない。だけど、続けたからといって解決する可能性は、自分ではなく、外部だけが持っているものだ。それに気づかずに、ただ続けろとはあんまりだ。だから僕はこう主張する。迎える準備をしろ、しかして絶望的に到来不可能なものが到来するその瞬間を待て。と。
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2004年12月23日

停滞はいつか上昇へ向かう

 煩悶、苦悩、痛み、悲しみ、停滞などの全てを僕にください。僕を完膚なきまでに覆いつくしてください。僕を苦しみに溺れさせてください。なぜならそれは僕をより高みへと追いやるものだから。煩悶や苦悩は、僕に考えることを強いる。だからこそ僕は考えることで、そこを突破できる。つねに高みへと目指してゆける。楽は僕を成長させない。だから僕は苦しみと悲しみを喜んで受けよう。苦しみと悲しみに支配されている間は停滞と呼ばれる。ただ遅延してゆく存在。だからといって落ち込むな。停滞は上昇へ向かうための予備動作だ。とまらなければ思考できない。考えなければ成長しない。苦しみ、煩悶、苦悩、不安、これら全ての感情を僕にください。そして停滞させてください。僕は自らの思考で停滞を乗り越えてみせよう。より高みを目指してみせよう。

僕に停滞を。そして高みを。

人生はループじゃない。毎日は変わりゆく。停滞しても、それは遅々として進んでゆく。人は気づけないけど、毎日少しずつ進んでいっているんだ。上昇は次の上昇に繋がる。苦労して自転車を乗れるようになった後は、バイクに乗れることに繋がるんだ。たとえ不慮の事故で両足を失ったとしても、乗れたという事実は残る。僕らは悩んで、あがいて、もがいて、苦しんで、停滞して、上昇してゆくんだ。人生はループなんかじゃない。変わらない日々なんてないんだ。現状維持は下降なんかじゃない。繰り返される毎日は上昇するための準備運動だ。
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morals

「倫理とは、己の内から湧き出すものだ。けして学んだり教えたり押し付けるものではない。ただ自己と他者の関係を自覚したときに、倫理は己のうちより自然と生み出ずる。それが倫理になる。自己と他者との関係性を見つめるんだ。そこからしか倫理は生まれない。」

「胡散臭いことを言っているとお思いでしょう。しかし、倫理とはすなわち自分のために行うことなのです。他人の為に倫理を行うのではなく、あくまでも自己の為に倫理を実践するものなのです。それが真の倫理だと私は確信しています。要は自己は一個の他者であります。自己たる他者をつねに考え続けることが倫理に向かうのです。その自己と他者が互いにどのような影響を与えるのかを考えましょう。腹が立ったら烈火のごとく怒りなさい。悲しくなったら声を上げて泣きなさい。ただ、それは自分のためにこそなされるべきなのです。他人がやったから自分もやったなどと、言い訳をしてはいけません。他人のために何かを為すなどと言ってはいけない。それは結局自分を傷つけるだけなのですから。だからつねに自身のためにこそ行いなさい」
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if

「もし君が何かを知りたいのならば、まずは模倣をすることだ。結果はその後についてくる。あわてなくてもいい。とりあえず模倣をすれば、自身の中に形式が作られる。模倣によって形式を作れ。形式だけではその実感がともなわない。形式は達成感を与えない。しかし実感は形式の後に遅れて宿るものだ。だから慌てるな。まずは模倣しろ。形式をつくれ。そして形式を模倣しろ。感じるのはその後だ。僕が君たちにいえることはそれだけだ」

「僕は確かな実感を得てあとで上の言葉を記した。実感を得ると、その経験から新しい言葉を語りだす。実感は経験になり、経験は新しい言葉をつくる。すくなくとも、上の言葉は誰の模倣をしたつもりもない。ただ自分が感じたことをそのまま書き綴っただけだ。しかしそれが僕の中で新しい言葉として芽吹いたのだ。模倣と形式をなぞった後には、実感による新しい言葉が発生する。模倣と形式の繰り返しが模倣と形式を破壊する契機となりえるのだ。その契機は実感によって見出され、言葉はそこから紡ぎ出る。これは僕の実体験だ。そこから生み出た言葉に僕は酔いしれている。これは僕の言葉だと信じている。僕だけの言葉なんだ。ああなんて幸福な時間。たとえこのときがいつか終わりを迎えようとも、そんな時が確かに存在したのだ僕は誇りを持って断言できる。この瞬間によってこの先の人生は豊かになるだろう。辛いこともあるだろう。悲しいこともあるだろう。しかし、僕はこの一瞬に存在できたことを思い出すたび、人生に対して感謝するだろう。自分が生まれ出てきたことを祝福するだろう。そんな思いを抱き続けて辛く悲しい人生を生きてゆこう。僕はいま人生を信じている。人生全てを肯定できる。あるいは僕は人生を肯定したという事実を、ずっと抱き続けるだろう。その喜びをいまここに記す。」

 追記・自分で文章書いて感動のあまり泣きそうになった。あほですね。自分で書いたシナリオに号泣する麻枝准かよ俺は(嬉)。いまの俺に言わなくても判っているのだろうけど、あえて言っておく。勝って兜の緒を締めろだ。現状に留まり続けるなよ。常に先を追い求めろ。追って追って追い続けろ。倒れるときは前のめりになって倒れやがれ。根性みせろ。そして前後左右上下に気をつけて歩きやがれよおらあ!! やっふー!!
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2004年12月21日

 「私」は何か? 「私」とは「私は何か」と考えたときにだけ現われる幻想。
 
 以下、焼きまわし。

 私は「私」が初めから存在したと勘違いしている。しかしそれは間違いだ。自己の存在自体が虚構だというのは少し理解し難いことかもしれないが、「私」とは、明治以後西洋から日本に導入された新たな概念なのである。明治時代の人々はこの「私」と言う概念にひどく困惑したと言う。建築様式がよく現しているように、当時の日本人には「個」という概念が希薄だった。襖を開ければ隣の部屋へと通じる構造の家では隠し事なんて出来ない。自分の秘密が容易に成立しないのだから、無論自己も成立しない。自己とは鍵のかかる部屋が建築されて初めて成立したのである。自己が成立したから鍵のかかる部屋が出来たのか、鍵のかかる部屋が出来たから自己が成立したのかわからないが、たぶんお互いが不可分に結びついて成立したのだろう。ここで重要なのは、自己が概念があとから発見されたという事実である。私とは虚構なのである。


  こうして文章を書いている「僕」と、いま文章上に表記されてある「僕」とは本質的には全く関係ない存在である。全く関係なくて同時に関係のある存在が虚構の「僕」なのだ。これは小説の登場人物とその作者の間に結ばれている関係に酷似している。例えばいーちゃんと西尾維新は同一人物ではない。いーちゃんは年上好きだが、維新本人は重度のロリコンかもしれない。僕自身はしいたけを親の敵のように嫌っているが、「僕」はしいたけが大好物だと言えるのである。だいいち前者の親の敵のように嫌っているという表現自体が誇張によって虚構化されている。自己を語ると言うのはそのまま虚構化に繋がる。しかし不可分に結びついていることもまた事実だ。維新がいーちゃんとは全く別の思想をもっていても、いーちゃんのように考える思考を持っていなければ、いーちゃんの言葉は出てこない。登場人物の言葉をそのまま作者の主張に当てはめるのは馬鹿げたことだが、しかし登場人物の言葉を考えたのは作者であり、多面的な心理の一部分にあたることは間違いない。つまり男性に女性的な面が皆無だったら、小説で女性のフリをすることは不可能である、ということ。自己の為に文章を書くことは自己を虚構化して確立するのである。文章を書いたあとは、なにか満ち足りた気分に浸れる。偽りの自己同一性を獲得した安定感があの充足した気分の正体だ。虚構化された自己を獲得することでひと時の安定を維持するのである。僕もいるし、私もいるし、自分もいる。すべてこれは自己だ。そしてどれも自己ではない。しかし「僕ら」はこれからも幻想だと判っていて幻想を消費することでしか生きれない。

 《私は誰かもわからない、わたしはただ、ありもしない、見つかるはずもない「真実の私」を探す行為を、ただ繰り返しているだけだ。私という存在は、いったいなんなのであろうか》

《私は行なう。私は言い訳はしない。行なうところが、私なのだ。私は私を知らないから、私は行なう。そして、ああ、そうか、そういう私であったか、と。 私は書く、ああ、そういう私であったか、と》(「私は誰」坂口安吾)
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2004年12月20日

親友交歓に対する追記と矛盾する無分化思考。

 以下は、自分の親友交歓の文章を前提にして書いています。

 んー、微妙にあんなことを書きたかったわけではない。えーと。以下自分の為の草稿。
 あの論理を成り立たせるために太宰を敵に仕立てていることをわすれんなよ、自分。その太宰とは僕であり、僕は太宰だ。他者とは一個の自己であり、自己とは一個の他者である。自己は他者を見つけ、他者の発見は自己を仮構する。自己と他者の境界は明確に区別できるのもではないのである。
 
 いやしかし、他者とは自分でありながら同時に、手の届かない遠いところに存在し、また自分ではない他者も存在する。その他者は、唐突に僕の存在を揺るがすような言葉を投げつける。「威張るな!」と。その予期しない、自己の存在を根底から崩壊させかねない言葉は、一瞬、自分とは明らかに違う他者として存在する。僕は、自分の中に飼っているかわいくて反抗しない他者とは異なる、「真実の他者とおもわしき」人物を発見するのだ。「本当の世界」は、「真実の他者」は、存在するのかもしれない。僕はそれを発見することはできない。ただ、自分に映る世界と他者を眺めるだけだ。僕の世界は僕が死んだ瞬間に消滅する。「世界」は僕が死んでもあり続けるだろう。ただ僕はそれを確認できない。「世界」の存在を証明することはできない。しかし確かにあるだろう。だからこそ僕は、「世界」をあるかもしれないものだと定義する。他者とはあるかもしれないものなのだその一瞬を露呈する「威張るな」という言葉。彼は自己と同じ立場にありながら、自分で同じがあるゆえに限りなく近く/果てしなく遠い、だからこそ「威張るな」という言葉を私に投げかけて、私自身の存在を危うくさせる。それこそが他者だった。。突き放されることで、他者を感じられるのだ。つまり自身の全てを転覆させる、どこまでも冷たく光輝を放ち、極限の無限を持って暗黒で、偏見の汚わいにまみれた善悪を超越したモノ、悲しくて泣き叫ぼうと怒りで殴りつけようとけして自分が到達不可能な場所。ああ、彼こそ他者だったのだな。いやしかし次の瞬間には、彼はいなくなって私になったのか。彼は彼のままでありながら、私だったのか。そして私は誰かといえば、これを書いている私以上のものではない。私は私。行なうが私だ。別に私なんかいやしない。ただ私がいるのみだ。私や誰かなんかいやしない。しかし私は私である私を瞬間的に切り裂く他者がこの世界にはいるかもしれない。これを自己の絶対の孤独であり、また同時に自己の全てを転覆しかねない世界との邂逅だ。次の刹那には消え去る世界との邂逅。(そうそうこれこれ、親友交歓ではこれを言おうと思っていたのよ。)
 
 いまの僕は本当の世界、真実の他者へのと向かう欲望をあまり持っていない。僕は、僕の中にある他者を発見し、それと戯れている。お望みとあれば萌えキャラとでもいって見せよう。それは「真実の他者」の代替して扱うわけではなく、「真実の他者」と「萌えキャラ(飼われた他者)」は互いに等価なのだ。一方にウェイトを置くことはしない。多様化した価値観が占める現代では、両方ともが真実として機能するには役不足だ。僕らが発見できない「真実の世界」。なんだそりゃである。場合によっては、「真実の世界」を一つの萌えキャラとしてとして扱うことだって可能だ。現代では「本当の世界」、「真実の他者」、「オリジナル」ほとんど価値を失っている。だからこそ僕は萌えキャラに対して等価以上に本当なのだ。例えそれが嘘だと判っていても、本当がどこにも存在しないのだから、それは嘘ではなく自分とのって本当だ。それを自己と自己の緩い関係と呼ぶなら呼ぶがよい。自己と他者の緊張した関係がいまだ実現可能だと信じているのならば。いや実現可能なのか? んーん。少なくても実現しなくても生活していくうえで何の支障が出ない状態に現代は環境が整ってしまった、良かれに悪かれは別にして。

 世界は僕がいなくても何一つ変らずに、毎日の営みを続けるだろう。僕が世界に抵抗しようが、あるいは世界に服従しても、それはいずれ誰かによって達成されるに違いない。そして今日も変らずに世界は動き続ける。たぶん、それは間違いない。僕ら自身が、オリジナルとしての価値を失い、ただ代替可能なモノとして扱われている。おれは「代替可能なモノをやめるよ」と抵抗しても意味はない。社会的に従属する学生を辞めて、家に引きこもることで抵抗しても意味はない。学生はすぐに自身の代わりに補充されるし、自分はひきこもりという社会的価値を与えられる。代替物から、違う代替物へと移行しただけだ。逆に僕が積極的に社会に関与したとしても、社会は何一つ様相を変わることなく、自動的に営みを続けるだろう。肯定的な行動であろうと、否定的な行動であろうと、世界から見れば僕らの行いなんて大差ないし、僕らも関与できない。この無限連鎖がオリジナルの消失という感情に繋がる。確かな手触りをもつただ一つの真実や現実などない。そのとき、オリジナルと複製物はゼロ距離になる。オリジナルは消えて、存在するのは複製物だけだ。すべてが代替で、等価になる。代替か、等価というのは、あくまでも感情的な問題か。まあいい。その複製物を副生物たる自分が取り込む。あるいは複製物たる自分を、副生物たる他人が取り込む。ただ自分が求める萌え要素によって相手を求め、相手も萌え要素によって自分を求める。例えばAさんが相手に容姿(萌え要素)を求めてBさんに近寄ったなら、Bさんは知性(萌え要素)を求めてAさんに近寄るという互換的な行為によってコミュニケーションが成り立つ。それが今の世界のある意味で当然のコミュニケーション方法だ。

 しかし突発的に存在しないはずの、或いはあるかもしれない世界へと向かおうとする衝動が生じる。発見できないと判っていながら「オリジナル」を求める衝動を抑えることが難しくなることがある。「オリジナル」への衝動とは、萌えキャラから人間の女性へと移行するなどということを言っているのでない。別に人間の女性にオリジナルを見出すほど僕は現実を信じちゃいない。ただ、ないとわかっていても、どこかに存在するかもしれない、オリジナルへの衝動を突発的に感じることがある。そういう衝動だ。その衝動が間歇的に襲ってくるのだ。それが現状に対する苛立ちに、焦燥感に変る。

 もしかして「威張るな」と誰かに言って欲しいのかもしれない。他者の他者性とやらを感じたのかもしれない。全ての価値観を転覆して欲しいのかもしれない。いやしかしそのような逃げる姿勢を、「きれいなお姉さんに厳しく叱って欲しいのだけれど」といった姿勢を打ち砕くものこそ、本当の他者性なのだけど。だけどしかし、叱ってほしよな。
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2004年12月19日

親友交歓

『親友交歓(太宰治)』を取り上げる。僕にとって太宰の小説はその多くが未読なので断言できないないが、『親友交歓』はこの人が書いた小説の中では珍しいタイプ作品だと思う。
 
 親友交歓という作品はいわゆる意外な結末で迎えて終わり、そこには太宰本人を批判する形式を、つまり自己批判の構造を備えている。僕が知る限り、基本的に太宰は自己を批判するより婉曲的に他人を批判することで自分を肯定する人だ。
 
 人が判らない。すぐに汚い言葉遣いでひとを罵倒する。何かに対して怒るときの人間は、顔を醜悪に歪ませ、牛よりよりよっぽど下等で恐ろしい。人と人の間には絶望的な断絶が存在しており、相互理解など不可能だ。人は人を知ることは出来ない。とか人を評するのはよく聞く話だ。

《人は人に影響を与えることも出来ず、また人からから影響を受けることも出来ない》

 他人を自分から遠く押しやることは、自分自身の足場を堅固に安定させることである。他人が醜いと言って外部に排斥することは、結局自分は美しい、自分はアイツと違うという言い訳によって成り立っている。他者の全否定は、自己の全肯定だ。自分の現状をそのまま肯定することは難しいが、他人を否定することは簡単だ。婉曲的な自己肯定とは、社会を、他人を、世界を否定することであり、その行為は容易であるがゆえに堪らなく魅力的だ。

 えらく誇張して表現したが、太宰の小説には多かれ少なかれこのような感情が存在すると思う。だからこそ人を信じることが出来ない僕らは、ネガティブな感情を持つこれらの作品に惹かれるのだろうし、これからも太宰の作品は読まれていくだろう。それとは反対にいつの時代も、太宰の作品は他者あるいは世界へと向かっておらず、甘えているだけだという批判も続いて言われていくのだと思う。
(注・いま自分の脳内だけにある世間を相手に論じている。実際の世間で太宰がどのように評価されているのか僕はわからない。ただ太宰の作品を読んで僕は肯定と否定が共存する感情を抱いた。その感情を自分で仮構した世間に擦り付けただけ。自己の不勉強と、そのような現状を安易に許し、しかもその状態で滔々と太宰を語る自分に対しての自戒)
 
 しかし僕が言わなくても太宰という人はすごく頭のいい人だ。当然だ。婉曲的な自己肯定を続けるほど太宰は腐っちゃいない。安全な場所に立つ自分に対して、批判をするのは至極当然だ。
 そしてたぶん、そこから生まれたのが『親友交歓』という作品なのだと思う。僕が文章の初めで『親友交歓』を自己批判の形式と評したのは、他人を否定する自己を批判するという構造を備えているからだ。

 祖筋を紹介するのも面倒だし、だいいちこの話はめっぽう面白いので青空文庫でぜひ読んで欲しい。太宰の筆の冴えを存分に堪能できる。皮肉と諧謔に満ちていて読後には思わずニヤリ。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2271.html

 きちんと読了したならば、もう一度初めから読み直すことを勧める。きっと意外な結末で思わず戸惑った人が多いことだろう。その場合、今度は友人の視点で物語を読み進めるべきだ。少しは意味がわかってくるはず。そして二度読み終わったなら、ここから先の文章を読み進めて欲しい。

ふむん、なるほど、そんな話だったな(いま再読し終えたので感嘆の声を挙げている)。

 唐突にふらりとやって来た「友人」は、同窓会の金を催促し、貴重なウイスキー飲んで私の妻に絡み、家の中でさんざん暴れて最後に囁く。威張るな、と。読んだ人ならわかるが、威張っているのは明らかに友人の方である。一体こいつは何を言ってやがるのか? などと思って戸惑った人もいれば、思わず笑ってしまった人もいるだろう。全く一つもいいところの無かった友人は、私に親友強姦などと思わせるぐらいに不遜な態度を取る。そして一方的に私はこの友人の行動に振り回されて困惑する。この構図だけを見れば明らかに私は被害者であり、友人は加害者である。ではなぜ友人は私に対して「威張るな」と言ったのだろうか。それを理解するためにはまず私の視点から友人を見るのではなく、友人の視点から私を見る必要がある。
 
 《私は、ふと、木村重成(しげなり)と茶坊主の話を思い出した。それからまた神崎(かんざき)与五郎と馬子の話も思い出した。韓信(かんしん)の股(また)くぐりさえ思い出した。元来、私は、木村氏でも神崎氏でも、また韓信の場合にしても、その忍耐心に対して感心するよりは、あのひとたちが、それぞれの無頼漢に対して抱いていた無言の底知れぬ軽蔑(けいべつ)感を考えて、かえってイヤミなキザなものしか感じる事が出来なかったのである。よく居酒屋の口論などで、ひとりが悲憤してたけり立っているのに、ひとりは余裕ありげに、にやにやして、あたりの人に、「こまった酒乱さ」と言わぬばかりの色目をつかい、そうして、その激昂(げっこう)の相手に対し、「いや、わるかったよ、あやまるよ、お辞儀をします」など言ってるのを見かけることがあるけれども、あれは、まことにイヤミなものである。卑怯(ひきょう)だと思う。あんな態度に出られたら、悲憤の男はさらに物狂おしくあばれ廻らざるを得ないだろうと思われる。木村氏や神崎氏、または韓信などは、さすがにそんな観衆に対していやらしい色眼をつかい、「わるかったよ、あやまるよ」の露骨なスタンドプレイを演ずる事なく、堂々と、それこそ誠意おもてにあらわれる態(てい)の詫(わ)び方をしたに違いないが、しかし、それにしても、之等の美談は、私のモラルと反撥する。私は、そこに忍耐心というものは感ぜられない。忍耐とは、そんな一時的な、ドラマチックなものでは無いような気がする。アトラスの忍耐、プロメテの忍苦、そのようなかなり永続的な姿であらわされる徳のように思われる。しかも前記三氏の場合、その三偉人はおのおの、その時、奇妙に高い優越感を抱いていたらしい節(ふし)がほの見えて、あれでは茶坊主でも、馬子でも、ぶん殴りたくなるのも、もっともだと、かえってそれらの無頼漢に同情の心をさえ寄せていたのである。殊に神崎氏の馬子など、念入りに詫び証文まで取ってみたが、いっこうに浮かぬ気持で、それから四、五日いよいよ荒(すさ)んでやけ酒をくらったであろうと思われる。》

 親友交歓の一節であるが、つまりはこの長い引用のとおりである。初めの私は、軽薄な態度をとる木村重成を軽蔑して、むしろ茶坊主に対して同情的である。無頼漢たちが偉人たちを困らせてるというが、その原因は偉人たちが他人を上から見下すからである。その不遜な態度を見た無頼漢たちは、怒って暴れまわることしか出来なくなる。悪いのは偉人たちの卑劣な態度であって、無頼漢たちの心が荒むのは当然だと。しかし私は暴れまわる友人を前にしたとき、軽蔑する偉人たちと同じ態度をとる。以前の無頼漢たちへと共感はどこ吹く風で、手のひらを返したように考え方を変える。むしろ偉人たちに共感して、この場をうまくやり過ごそうと苦心する。

 読者も思わず、あの無礼な友人を前にしたら偉人たちと同じように行動するのが当然であると同情的になり、私に対して感情移入をする。なんて不遜なやつだ、けしからん。突然政治の話をしたと思ったら、恩を押し付けようだけか。失笑だ。いや、ここまでくるともう善悪の基準を越えて賞賛したくなるし、まったく天晴れな奴だ。などと徐々に私も読者も思うのだ。
 
 しかしここで友人にしてみれば、私は軽薄な態度をとる卑劣な人物に他ならない。無頼漢である友人は、かつて私が同情的だった茶坊主や馬子の立場に置かれている。茶坊主や馬子は偉人たちのイヤミな言動に耐え切れず暴れまわったのだ、と私は言っていた。そのとおり、友人に全く同じことが当てはまるのである。実はさんざん軽蔑した偉人を私は演じ、怒り狂う無頼漢を友人が演じたのだ。私と友人は表裏一体の存在だ。私はかつて無頼漢に同情を抱き、偉人たちを軽蔑していたが、友人が暴れると卑怯でも何でも構わないから軽薄な社交家の役割を必死に演じていた。友人は無頼漢であるが、私の妻が酒の酌にやってくると社交家にも変貌する。二人は立場や状況によって両方の役柄を演じたのである。一方は社交家を、一方は無頼漢を演じたが、二人の内面は同じように孤独を感じていた。
 
 無頼漢である友人の怒りは、私のイヤミな言動に向けられたものだ。最後に言った「威張るな」は、軽薄な偉人たる私への憤りを口にしたのである。私が被害者で友人が加害者という図式はそっくり反転し、友人が被害者で私が加害者という構図に変わる。「威張るな」は、実は被害者である友人が加害者である私へと向けて送った言葉なのだ。

 私は、偉人たちと同じように行動し、卑怯であろうとなんであろう自分の正当性をばかりを認めていた。他者の立場に対する想像力の欠如がある。最後の「威張るな」はいままでの私の行動の欺瞞性を暴き立てるものだ。

 僕らはすぐに相手を加害者に仕立てて、被害者ぶるとうするし、その誘惑にはよく負けてしまう。しかもあくまでも無意識に相手を仮想敵に見立てることが多い。そして自分が正義だと信じ込む。そこには意図せずに相手を否定することで、自分を肯定するプロセスがあるのだ。
 
 例えば、世間ではオタクに対して現実の女性に相手にされないから虚構に逃げ込むというレッテルを貼り付ける。オタクはモラトリアムに浸るだけで、社会的ではなないという。ある意味で真実を衝いている一面もあるとはいえなくもない。しかし、ここで問題なのは自分は正しいと思う無意識のプロセスだ。世間はオタクの一面だけを捉えて見下す。自分たちが所属する世間というものがオタクと違って正常に機能してると信じるのだ。また反対に、いまや日本のアニメは世界的な水準に至り、誇るべき日本の文化だと僕らも一面的に世間を否定する。どちらの主張も偏見に満ちているが、両方ともある意味で真実を衝いている。(ただ一般的に批判されることが多いオタクの方が、現実と虚構という対立を絶えず考えさせられる。ゆえに世間は現実という名の虚構に胡坐をかいて動こうとしないが、オタクは批判される側に属するその境目を真剣に考える。批判は自己を発展させるのもまた事実)
 
 無意識に自分を被害者に仕立てて、他人を加害者にするプロセス。そのような事態に容易に陥る僕らに対して『親友交歓』の物語は戒めと批判が込められている。それが「威張るな」という一言に凝縮されている。「威張るな」の言葉を前では他人を否定して自己肯定することは不可能である。なぜなら自分が加害者だと気づかす言葉だからだ。被害者を装うことで自分を肯定できたのに、実は自分が加害者だと気づかされたあとでは、安易な自己肯定は無効化される。

 「威張るな」という言葉でいまの僕は世界との関係を少なからず学んだ。被害者へと成ろうとする甘い誘惑は付きまとうし、つねにそれを退けられるとはとうぜん限らないのだけど、絶えずそのセリフを留意して物事を考えようと努めている。少なくともそのつもりだ。文章を書くという行為は自己の主張ばかりを肯定し、他への想像力が欠如する。だからその他もろもろの戒めとして自分に対して一言書いておこう。

 「威張るな!」

 叱咤激励、誹謗中傷、悪口雑言、三拝九拝、洛陽紙価、批判批評どれでも絶賛受付中。シカトも一つの反応として見られなくもないので問題ないでしょう。ただスパムメールは簡便な。

追記・『親友交歓に対しての追記と矛盾する無分化思考』と併読を勧める。てかこの文章をすげーつまらないな。
posted by doolittle at 04:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 本など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月15日

you say goodbye , I say hello

 「死にたくない!」
 「なら一生死んでも生き続けていろ」

 「僕にかかわらないで欲しい」
 「そんなこと言ってないで黙ってればいいんじゃないの?」

 「あなたには欲しいのものを何でもプレゼントしてあげる」
 「欲しいものが何なのかを教えてくださることが僕にとって最高のプレゼントです」
 
 「おまえらうざい。みんな殺してやる」
 「大変だね。自分自身を殺した方がいろいろと楽なんじゃいの」

posted by doolittle at 03:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 対話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月13日

wait and wait

 徐々に寒さが身に沁みてくる秋の夜長。文章を書かないで過ごすにはあまりにも長くてつらい夜だ。
 実は今まで僕がまとまった文章をかくことはほとんど無かった。書く時間には恵まれていたが、実際に言葉を書き出す段階に来ると非常に困難な作業のように思えた。正直に告白すれば、僕は文章を書くことを恐れている。多くの言葉を費やして自分自身に感動を伝えたい事柄があるのに、なにも言葉が思いつかないで心の中にもやもやとしたわだかまりだけが残るときの無力感を僕は恐怖している。文章を書くということに対して興味は尽きないのだが、文章を書けなかった時の恐怖を避けたかったのだ。
 しかし僕はそのような不甲斐ない(けれども愛しい)事態と決別して、今まで溜めてきたさまざまな事柄を自分の言葉で表現することにしたのだ。例え他人の考え方を拝借したとしても、それを自分の言葉によって語り直すことは、少なからず意義があるはずだ。僕はそれを信じて今ここに文章を綴っている。文章とは人が何かを信じるために書くもだから。それを信じないというならば、それを信じないために文章を書いてみるべきだ。そのとき、信じないということを信じるために文章を書くことになるはずだ。
 ここで、宣言をしよう。僕は自身の為に自分の言葉によって自己を表現をすると。まずはそれからだ。

 きっとこの文章は「我」ばかりで気持ち悪いことだろう。しかし今僕は「我」という存在は捉えなおす必要がある。
 初めに自己が成立するために不可欠なのは社会である。ここでいう社会とは、言語や風習などの文化一般であり、属する共同体のことだ。まず自己はその社会によって存在を規定される。言語の習得や制度などをいやおうなしに押し付けられることによって自己は存在できるようになる。親が子供を幼稚園にかよわせることで、その子供は幼稚園という場で一つのアイデンティティーを確立する。自己の存在は世界から遅延せざるを得ない。「私」のことを考える時、そこにはすでに社会を含んでいるのである。言語を使用して思考する事自体が社会的なものの影響を受けているのだ。僕もそのような過程を経てからこそここにいることができる。
 そのように社会の規定をある程度の時期まで通過すれば、社会的なものに反抗するかたちで自己を発見するのだ。自己によって社会を発見するのではない。社会が自己を発見させる契機になるのだ。自己同一性の成立には二つ種類がある。一つは社会によって成立する自己と、一つは社会から逃れるために出現する自己である。前者は先に述べたとおりであるが、後者は少し説明しよう。社会に帰属しない自分、自分自身の存在とは一体なんなのか、問い始めるとき、いわゆる自分探しをはじめたとき、また一つアイデンティティーを確立する契機に繋がるのである。それは社会的なものとの対立が自己へと向かわる契機となったのだ。社会と自己の分離によって自己同一性を得るのである。
 
 今の僕は社会的な秩序が働く現場から普通の人たちより遠い場所にいる。完全に社会から逃れたわけではないが、しかし以前と比べれば、格段にその接点は薄くなっている。きっと社会から逃れてしまった自己に近い。社会との対立が自己を成立させるのではなく、すでに社会との対立を離れてしまった自己なのだ。いま僕には反抗するための相手がいないから非常に不安定な足場でもがいているのだと思う。だれか仮想敵に仕立ててそれを攻撃するならば、自己はある程度安定するだろう。相手を否定することとで自己を肯定する。発見してしまった自己を安定するために社会という足場を必要とするのだ。
 しかし僕はそのような相手と社会から望むと望まないに係わらず離れてしまった。精神的にはいわゆるひきこもりと呼ばれる人々に近いのだと思う。逃げるのでもなく、ただ社会的なものから分離して存在するという意味で。
 最小限に他人と関係することを抑えている僕は、自己と言う鍵のかかった部屋で一人パソコンに向かう。ここでは社会に対して参入することが難しい。社会的な自己同一性を確立するのに困難な状況にある。ある共同体によって自己を規定することが出来なくなった。同時に自己とはなにかという問いにぶち当たるが、それけして答えることが出来ない。自己言及のパラドクスだ。
 社会的な自己、社会に反発するかたちで現われた自己、これらはある意味で両方社会に依存している。これは一般的には正しい。社会と自己をうまく折り合いをつけて生きてゆくのが大人なのだ。社会から見れば僕のように共同体から離れることこそ悪だ。しかし社会から離れている僕はそのような善悪の観念からも遠ざかっている。ここでぼくは、「社会が悪と決めるならば、ぼくはあえてその悪にとどまることをいとわないし、むしろ自分に嘘をつくぐらいなら喜んで悪の名を受ける」などと言って自己を特権化するつもりも無い。そのような社会に反発する場からも遠い場所で、自分を規定できない不安定な足場の上で僕は存在している。だから僕は今ここで自己をもう一度見つめなすことが必要なのだ。
 
 しかしそれは不可能だ。自己を文章化することで再び自己を発見することは出来ないだろう。社会と自己の境目を行き来する存在をこそがきっと人間なのだ。社会にばかりに寄りかかることもあるだろう。自己の内面にひきこもることもあるだろう。(現在進行しつつある監視社会は、個人が社会から離れて時間を、何もしないで公園でぼー過ごすのを不可能にする。風呂に入っているときは一人であることが前提で気持ちよく入浴できる。しかし外部から見られていると思ったのならば瞬間に落ちつかなくなるだろう。そういう意味で一人の時間は必要なのだ)人間とはそのような行為を無意識に繰り返して生きてゆくのだ。
 僕はその社会と言う自分を切り捨てて、発見された自己のために言葉を費やしている。つまり、そのような発見された自己と言う一種の虚構の存在を擁護するために、いくらがんばろうとも果てが無い。自己を欲望する欲望に果ては無い。自己を欲望する欲望する欲望、自己を欲望する……といった具合に自己の発見とは無限退行に近い。自己自身がもともと虚構の存在だからだ。その欲望はけして満たされることはない。
 自己の存在自体が虚構だというのは少し理解し難いことかもしれない。しかしそれは間違いだ。「私」が初めから存在していると僕らは勘違いしている。「私」とは、明治以後西洋から日本に導入された新たな概念なのである。明治時代の人々はこの「私」と言う概念にひどく困惑したと言う。建築様式がよく現しているように、日本人には「個」という概念が希薄なのである。襖を開ければ隣の部屋へと通じる構造の家では隠し事なんて出来ない。自分の秘密が容易に成立しないのだから、無論自己も成立しない。自己とは鍵のかかる部屋が建築されて初めて成立したのである。自己が成立したから鍵のかかる部屋が出来たのか、鍵のかかる部屋が出来たから自己が成立したのかわからないが、たぶんお互いが不可分に結びついて成立したのだろう。ここで重要なのは、自己が概念があとから発見されたという事実である。私とは虚構なのである。
 こうして文章を書いている「僕」と、いま文章上に表記されてある「僕」とは本質的には全く関係ない存在である。全く関係なくて同時に関係のある存在が虚構の「僕」なのだ。これは小説の登場人物とその作者の間に結ばれている関係に酷似している。例えばいーちゃんと西尾維新は同一人物ではない。いーちゃんは年上好きだが、維新本人は重度のロリコンかもしれない。僕自身はしいたけを親の敵のように嫌っているが、「僕」はしいたけが大好物だと言えるのである。だいいち前者の親の敵のように嫌っているという表現自体が誇張によって虚構化されている。自己を語ると言うのはそのまま虚構化に繋がる。しかし不可分に結びついていることもまた事実だ。だからこそ欲望を欲望するという無限退行に陥るのである。自己の為に文章を書くことは自己を虚構化して確立するのである。文章を書いたあとは、なにか満ち足りた気分に浸れるのだ。偽りの自己同一性を獲得した安定感があの充足した気分の正体だ。虚構化された自己を獲得することでひと時の安定を維持するのである。
 これらの自覚のあとでは強固たる確信をもって文章を綴ることは不可能だ。自己を確立するために文章を書くのではなくて、ただ自己を確立する幻想を得るために文章を書くのだから。前者は手に入れられない自己を手に入れるための無限退行に嵌るが、後者は無限増殖する虚構化された自己に支えられた地獄に落ちる。僕もいるし、私もいるし、自分もいる。すべてこれは自己だ。そしてどもれ自己ではない。しかし「僕ら」はこれからも幻想だと判っていて幻想を消費することでしか生きれない。以下、思考の断片。

 いやすでに幻想が現実なのだ。

 幻想だと判っていても、それが自分にとってリアルあるならば、なによりも価値があるのではないであろうか。

ただ自分にとってのリアルはあくまでも自分にとってでしかない。他人と価値観を共有することで大きなリアルを生み出すことは、価値観の多様化した現代では不可能だ。あくまでも自分の中に残留する現実。
 
 いやしかし自分とって……以下ループ。

 いま僕は、ここにいる。ばーか、おまえなんかいやしないだろ。

 昨日の自分は今日の他人。今日の自分は明日の他人。

 うん。前半と後半では論理が変わって言っているね。自分を捉えなおすから始まってその論理が破綻して行く過程で自分が疲れたから都合のいいところで幕を降ろす。それ以前にもう少しましな文章をかけないもんかね。だれか僕に頭の良さを分けてくれませんか。もしくは賢さの種を分けて下さいませんか。
posted by doolittle at 04:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 思考の坩堝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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