2005年01月30日

??

キャラメルBOX 処女はお姉さまに恋してる(おとめはぼくにこいしてる)初回版 中古売価9800円


(゜Д゜) ハア??

友人一同に告ぐ。新品を見つけたら確保よろしく。誰か、メディアパワーに行って確認してきてくれよ。
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適当なオタク小論

このネタまだひっぱります。

《透谷は「獣欲」と「精神的恋愛」を対立させ、前者の単独での価値を否定し、後者による前者の支配をもくろんだ。
 『恋風』に萌えるヲタは、この透谷の末裔である。
 「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ」と透谷が自己肯定的に言ったとき、それはまさにヲタのことを念頭において言ったかのようであるなあと思わないか。》

文脈から意味を汲み取るに、オタクは現実では達成されなかった願望を虚構にて反復する、という程度の解釈が可能である。しかしこれは明快にに間違っている。オタクは、よく言われるように現実と虚構を混同するのではなく、また現実の代わりとして虚構を消費するわけでもなく、現実と虚構を対立させないだけだ。現実のリアリティーと虚構のリアリティーはオタクの中では対立するものではない。つまり現実と虚構の優位性があるわけではなくて、現実も虚構もともに等価値である(微妙に虚構よりだけど)。現実で敗退したから仕方なく虚構に逃げ込むなんてことは今日のオタクとしては少数派である。セイバーは恋愛対象として、人間彼女は肉壷として共に価値があると思うのがオタクです。むしろオタクの価値基準においては現実より虚構の方が上であることも少なくない。虚構より現実の方に比重を置く人間は微妙にオタクではない、たとえば、恋人が出来てもエロゲーを捨てないのがオタクだ、恋人がいても隠れてエロゲーをやるのがオタクだ。「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ」なんてことはオタクにおいてありえない(大多数が)。確かに現実で恋人がいないからエロゲーをプレイする人もいるが、少なくとも僕の身の回りの友人には(KOHAやKAN)そんな理由でエロゲーをする人間はいない。ガチンコだぜ。やはりそういう意味で「オタクは透谷の末裔である」と定義することは難しいんじゃないかな。

と、勝手にKOHAとKANを自分の仲間に引き入れたわけだ。真性のオタクとして定義したわけだ。僕の認識に間違いがある場合は遠慮なく異議申し立てをしてください>お二方
少なくとも僕は、現実の境遇いっさい関係なく、純粋に二次元のキャラクターに恋慕を抱いたのが切っ掛けでギャルゲーとエロゲーをプレイしたわけですが。美少女ゲームの英才教育はだてじゃない。どうだ羨ましいだろ。え、別に羨ましくないって? 僕自身は、二次元彼女に価値を見出した自分を限りなく賞賛したいんだけど、人間ではなくキャラを愛すこと選択した自分を褒め称えたいんだけど、え、変ですかね。と「あえて」居直ってやる。
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2005年01月29日

森博嗣を潰せ! ぷらす自分に対しての言い訳

理系と文系の区別はあほらしいと思っていたのだけど、最近「すべてがFになる」を読んだら、理系の人が犯しやす間違いを全て詰め込んだ小説だったことに唖然とし、やはり理系と文系の区別をこえて物事は考えなければならないと再確認した。自身のナルシシズムを喚起する手段として森博嗣は小説を書いている。もっと理系の人間に侮蔑的に響く表現をするならば、森博嗣は、世界や人間をすべて論理的な正しさによって証明できると考えるようなフシがある。これは理系独特の傲慢さだ。小説を自分のちんぽをこするためだけに使用するような人間を許すな。小説は肉体と言語と世界から現われなければならない。けして私のためのだけの小説であってはならない。森博嗣をぶっ潰せ! 少なくとも現在のような森博嗣が世間で跋扈する状態にカウンターを当てておかないといろいろと不味いんじゃないかと思って、僕は言ってるんだ。別に森の小説をを楽しむことは人それぞれでいいと思うけど、しかしその楽しさに留まることで満足してはならない。と僕は「あえて」言うんだ。

想像的なものは身体性を無理やりに機能させる大きな影響力を持っている。テキストは私の意識を支配し、体に影響を及ぼしリアルだとに実感させる。物語が自分の思想と反発するはずのこと主張しても、読み手は感動することが可能だ。人殺しは良くないと思っていても、犯人には人殺しをしなければならない事情があったと物語として説明されれば、人々は容易に感情移入し、心を動かされる。自分の思想と物語の思想が矛盾することなく両立する。それはなぜか。思想とは私が求めた限りにおいて有効性がある、つまり自分にとってその思想が役に立つ、肌に合うといった私的な身体性において肯定される。恋と性と対立ではどちらの主張が自分にとって有効性があるかという判断から選ぶことは、どちらがじぶんにとって気持ちよいものか身体性に基づく。だから物語によって支配してやれば、簡単により気持ちよい思想へと転ぶことになる。物語で社会的なものを貶めれば、相対的に恋の重要性があがって恋は素晴らしいものとなる。反対に恋は身の破滅を招くものと描けば、性こそが唯一絶対的な快楽であると認めることができる。物語とは、説話的な巧ささえ書き手が持っていればどんなに間違った主張でも無理やり納得させる可能性がある。人によっては主張を間違っていることを見抜けることもあるだろうが、たいていの人は巧みな術中にはまってしまう。だから、ぼくは「楽しければ良い。面白ければなんでもいいじゃん」といった安易な肯定を否定しなければならない。

物語の魔力に簡単に嵌ってはいけない。大衆をイデオロギー的に先導するのはいつだって物語の効用である。歴史的に見れば、共産主義という神話によって自己を絶対化して赤軍などの一連の騒動を起こしたり、オウムではサブカルチャー的な想像力によって作られた観念(ハルマゲドンとそこからの救済など)によって人々をサリン事件で殺したのである。物語は容易に人を支配し、快楽へと導く。物語に支配された人間が行き着く果ては、すでに歴史が証明したとおりである。だから僕は「楽しければなんでもいいじゃん」という発言を絶対に認められないし、「脳内麻薬だけが分泌される物語」にはつねに注意して観察するべきだと思っている。せめてそういった物語を楽しむときは、肯定を否定して肯定するといういったプロセスを脳内で繰り広げる必要がある。何段階にもクッションをおいてはじめて肯定するべきなのである。一段階目で肯定するようなやからにはちょっと待ってくれよ、いいたくなるわけだ。

個人的にはクロスチャンネルとか家族計画とかがこれに当たる。これらの作品を昔の僕は一段階目で全肯定したという過去を持っているので、その過去に対してそいつは違うだろうと自分で異議申し立てをしたわけだ。その結果が現在のクロスチャンネル批判に当たるのである、つまりいまレビューとして掲載したクロスチャンネルの感想は過去の僕が抱いたクロスチャンネルの感想に対しての批判であったわけだ。作品自体はではなくて、自分の過去を清算するうえでの批判だったのである。だからいま僕からすれば、純粋に物語に耽溺する人をみると、てめえらラクしすぎだと思ってムカつくわけだよ。「楽しければ何でもよい」みたいな楽観的な意見を目にするとあまりの単純さにぶちきれそうになる。まあ現代とはそういう時代と諦めるのもありだし、時代的な正しさはむしろそういったものにあるのかもしれないが、しかしその事態に何発かカウンターを当てないと僕の気がすまない。たとえば江戸時代、官軍となった薩長は、時代の流れも味方につけて、幕府を転覆させて近代の祖となる明治維新を作り上げたわけだが、しかしそういった時代の流れや正しさなどを簡単に認めることせずに、最後まで反発した人間がいたことも忘れてはなるまい。つまり官軍と賊軍の両方の視点でもってそれぞれの功績を評価するべきなのだ。単純にどちらが良くて悪い問題ではない。あくまでもいくつも視野で事態を眺めた上で肯定か否定かを決めるべきだ。きみたちが薩長と新撰組のどちらに肩入れるかは君たちの判断で決めればよいが、一方に絶対的な基準をおいて信じてはいけない。その状態では容易に物語に支配されて、オウムの二の舞になりかねない。オウムとはまではいかなくても、「楽しければそれで良い」という態度は、たとえばエロゲーを例あげるならばではその発展を阻害し、やがて消滅させるだろう。否定という要素を取っ払ったところに発展はありえない。最近、メーカーとユーザーの関係は親密すぎて少しやばいと思う。メーカーとユーザーが一緒になって「祭りだひゃっほーい」という空気を作り出してることを無自覚に肯定しすぎでしょう。そういった、空気をどこのメーカーも持っているし、ユーザーもそれに喜んで乗ってくる。その幸せな関係はエロゲーの発展を妨げるであろう。だから僕はこういう。くたばれタイプムーン! フェイトファンディスクとか出している場合か! アージュとかちよれん関係! ユーザーを取り込むんじゃんねえ! その他もろもろのメーカーもみなくたばってしまえ。がるる。てかてめらもメーカーを甘やかすんじゃねえよ。メーカーを批判せよ、同時に自己批判せよ。と僕は「あえて」いってるんだ。てめえ判れよ。まあ判んないと思うけど。僕も昔は判らなかったし。虚構ではなく現実に踏みとどまることの重要性なんて、昔の僕は理解の対象外だったし。楽しくて何が悪い? って言う人間の一人だったし。そこらへんは判る人は判るし、判らない人はそのうち判るようになるし、また判らない人は一生かけても判らないんだよ。そんな感じ。どっちが良い悪いではなくてね。いや実際は悪いといいたいだけどな。
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2005年01月28日

お姉様

お姉さまから電話がかかってきた。

(僕)「はい、もしもし」

(姉)「近いうちに東京に行くので、あなたの家に泊まらせなさい」

(僕)「いやだ」

(姉)「あら。ほんとは嬉しいくせに。照れ隠し?」

(僕)「いえほんきでありえないんで勘弁してください、お願いします(懇願)」

(姉)「判ったわ。そこまで言うなら仕方ないわね」

(僕)「ウンそうしてくれると僕嬉しいデス」

(姉)「2月の10日にそっち行くからよろしくね」

(僕) 「何も判っちゃいねえよこのアマ!」

そんなこんなでぼくんちに泊まるらしいよお姉さまは。どうだ羨ましいだろ。はっはっは(涙目)。

いやいとしのお姉さまに会えるのは素直に喜ぶべきことなんだけど、でもねえ。ぶるぶる。


突発企画・今日の名言のコーナー

「姉は理想の母である」

姉は、弟を思いやって愛してくれるけど、母親のように一方的に愛を注ぐのではなく、たまに冷徹に突き放すよう他者性も備えている。母親は子供を取り込もうとするが、姉は弟を一個の他者として扱う。時に姉が冷たく思えるときがあるけど、それは過剰な愛を弟に求めないからだ。ある意味で理想の関係ではないだろうか。

まあ母親と姉の両方いる中で形成される関係性が僕にとって丁度いいような気がするけど。
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2005年01月27日

恋愛とは

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/koikaze.html

かとゆーから飛んだこれへの反論。てか本気でニュース系のサイトは少し記事の取捨選択を考慮した方がいいと思う。


明治時代の人々は江戸時代の価値観をそのまま持ち越したことで、肉欲の一面に傾倒した。肉欲だけでは恋愛はうまれず、貞操の観念が欠落しても生まれない。透谷は世俗的な快楽では到達し得ない内的な真実として恋愛を直観した。だから透谷は彼らに「春心」ではない恋愛の重要性や貞操の観念を説いた。現代の規制が緩くて無法地帯になっている成人漫画を読めば判るけどな、ただ性的欲求を満たすだけの即物的な描写だけで、恋愛なるものの至高性はどこにも見られない。透谷が人々に懸念したのはこういう事態のことだよ。規制がなければ人は目先の快楽に溺れることに終始する。そんなものは動物と変わらない。だから規制されて初めて恋愛とは可能になり、近代的な自我が発生したのだ。

社会的は規制によって肉欲を悪とする。社会的におおぴらにできなからこそ性的な行為は、恋人たちだけの秘め事となり、精神性を高める契機になりえるのである。性とはあなたのためだけにという特性を帯びることで恋愛へと繋がるのだ。禁止された性を恋人の前で解放することで恋愛はより強化される。社会的なものと対立する空間が、より二人の結びつきと精神性を保障する。つまり僕にとっての恋人が僕だけに淫らになるという幻想において、恋愛はより至上のものとなる。ここでは恋愛は肉欲を促し、肉欲は恋愛をより高みへと追いやるのだ。社会においてネガティブな性欲は、恋人たちの営みにおいて肯定されるのだ。性欲はけして後ろ向きな感情ではない。自身の内から生まれる欲望を否定することは欺瞞に他ならず、そのような欺瞞から真の恋愛はけして生まれはしない。

そうセックスはあくまでも恋人を愛するための手段であって目的ではない。セックスすることと、性的な交渉を伴わないことたとえばキスすることの間に本質的な差異はない。すなわちそれらの行為はあくまでも恋人に対する恋愛感情を高めるための手段なんだ。恋人を愛し、恋人に愛されるという無上の恍惚。そこにはセックスを汚いと思う感情などありはしない。セックスをして、手を繋い、抱き合い、キスをする、ただ一緒にいるだけで喜びとなる、恋愛とはそれら全てで味わうんだ。恋愛は世俗的な快楽で留まることを潔しとしない。身体性から発する純粋な肉体的な欲望を超越し(否定ではない)、そこから精神的なものへと向かってこその恋愛だ。恋愛の本質、それは恋人と一緒に永遠なるものを目指す無限の向上心だ。恋愛とは自らの精神を他者と共に高める作業に他ならない。動物は発情期によってセックスをするが、人間は愛情表現としてセックスをする。セックスをただの自分の快楽のためだけに行うことと、人を愛したいという感情の発露からのセックスとでは決定的な違いがある。むろん前者が江戸時代の人々であり、透谷は後者を主張した。すなわち自身の快楽ためではなくて、人を愛するこという精神性を重視したのである。だからこそ社会的に性を禁止する必要があり、同時に恋人たちは恋愛と性欲の社会的な対立を乗り越えて二つを統合することで、より多きな精神性へと向かうことが出来るのである。大げさなことを言っているが、要は近代的なセックスと恋愛は共にその人に近づきたい、その人を愛したい、という至極当然な人間らしい感情の現われであり、至高性への憧れなのである。恋愛の本質を、僕は至高性にみたり。

現代においては性的な禁止が弱くなったせいで(現代の中高生はすごいしねー)、恋愛そのものが効力を失いつつある。社会の禁止=二人の恋愛という構図が成り立たなくなった。
オタクたちはエロゲーに恋愛を求めた。最近では恋愛とエロの統合を重視し始めた。恋愛的でありながら同時にエロい。これは矛盾しない。なぜならエロは恋愛の精神を高めるものだから。悪いけど最近のオタクは、エロが恋愛感情を煽り立てる一要素であることを直感的に見抜いているよ、最近のエロゲーのニーズを読み取る限り。いまここで宣言するが、真の純愛とはエロくなければならないのだよ。

反対に現実自体は、江戸時代みたいというかエロ漫画みたいな様相を呈してきて、人によってはこの事態に堪えられんとですよ。人間を肉壷とでも割り切れば楽なんだけどね、そんなことを出来ない人は恋愛を求めた果てにエロゲーですがな。人間は肉壷と割り切った人も恋愛を欲してエロゲーですがな(まあ現代のエロゲーマーは多様化しており、エロ、恋愛、燃え、萌え、現代思想?をどれを選ぶもの人しだいといえるが、しかしそれらの裏側には全て至高性への憧憬がないだろうか)。恋愛を欲しない人だけが、今日の現実に適応できるんですよ。人はそれをDQNと呼ぶですけどね。人によっては現実で普通に恋愛している人もいるけど、まあ数少ないよね。江戸時代に逆行したような現在において、いかに透谷の主張が正しかったかを証明しておろう。恋愛はロマンチックイデオロギーなどではなくて、人間を人間足らしめる精神の営みである。松田道雄は、この真実に気づくことが出来ずに、透谷ほどの気高き魂を自分の理想の中に押し込める。それだけで大罪だ。むろんキミも同罪だ。芥川が「恋愛は性欲の詩的表現に過ぎない」みたいなことを言っていたけど、これもキミと同じく恋愛の本質を見失った人間の主張だね(芥川の作品はけっこう好きだけど)。精神的なものの中にのみに理想を見い出し果てに、現実に絶望したとキミは透谷を言及するが、それは全く転倒した意見と言わざるを得ない。透谷はつねに現実において恋愛を想定したのだ。だから透谷は人々に貞操についてを説いたのだし、そしてここにおいて「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ」の言葉は見られなければならない。恋愛とは現実と混同できるような単純な思慕ではなく、現実との差異において初めて至上なものとして達成される。むしろ現実との対立を糧にしてよりおおきな精神性とへと向かえるのである。

きみは、現実への妬み恨みから透谷は恋愛を志向したと言いたいみたいだが、これは現代の人間が勝手な価値観において透谷を不当に解釈したものと言わざるを得まい。キミの矮小で単純な恋愛観を持ってオタクを語るの勝手だが、透谷を貶めるな。透谷の恋愛は安易な精神的愛とは本質を異するのだから。

乱暴な要約だが、今日、DQNは肉欲のみで、オタクは精神性への欲求だけなので、両方が透谷の言説から外れた存在である。人はちんこ(肉欲)だけでも、ロマン(精神性)だけでも生きてゆけないよ。

オタクの末席を汚す一人ならばきみはえろげーの『とらあんぐるハート』をプレイして反省するべきじゃないかな。そこには恋愛がセックスの快感を高め、セックスが恋愛の精神性をより高みへと押し出す理想的な関係が描かれている。セックスとは恋愛の一過程である。それを実感したまえ。

と偉そうなことをいってますが、僕も都合よく記憶を改変した可能性があるので、原文にあたると透谷はそんなこと主張してないかもしれません。誰か詳しい人教えてください。というかすみません、自分の考えと透谷の考えを混同してます。自分の理想の中に透谷を押し込めました。大罪です。どこからが透谷の思想でどこまでがぼくの考えなのか区別がついてない自分。まあそういった論理的な甘さが僕の短所であり、長所でもある。

狂犬属性ばんざーい。人に噛み付くといい感じで書ける。噛み付かれた方いい迷惑だろうが、まあ僕にとって気に入らない主張なのだからしょうがない。運が悪いと思って諦めてもらおう。


追記
最近、悪しき恋愛主義の呪縛を逃れて新たな価値観を創設しなければならないなどという透谷の意見を反転させた主張をよく目にするが、それは新時代の発展ではなく、江戸時代への後退に他ならない。それは古くからある俗流の恋愛観を変奏した物言いである。原因と結果を取り違えちゃいけない。

セックスを否定するやからは信用ならないが、同じように恋愛を蔑ろにする人間も信用ならない。つまり身体性と精神性を切り離して主張する人間は根本的な誤謬を抱える。


最後に正直に言っておきますが、僕は透谷なんて読んだことはない。透谷をダシにして、遠まわしに自分語りをしたかっただけなんだよ。透谷をきっかけに他人に噛み付いて、どうにかして自分を語ってやろうとしか思ってない。だからここに書いてある透谷関連の文章は何処から本当でどこまでが嘘なのか自分自身でも判っていない。どこかで読んだ透谷の評言をもとにして(柄谷行人だったかな)偽造したものだ。つまり僕は自分の立ち位置を決めるために偽史を作成する必要があったんだ。きっと。

あといまのポストモダンと呼ばれる時代と明治時代との境遇が互いに似てませんか。誰かそこらへんの違いを教えてください。近代的な言説がそのまま現代に適用できるような気がしてならない。聞きかじりの知識だけで判断したに過ぎないのだが。僕自身の発言が近代的なものの変奏に過ぎないのでは? え、まじ。

自分のための思いつき。
現実と想像、肉体と精神の対立はエロゲーにおいてどのように統合されるべきか。エロゲーはその表現媒体の特性上、身体性を蔑ろにして精神的なものへと拘泥しやすい。どうするべきだろうか。あえて精神性に傾倒してみせるか。それともあえて精神性を放棄してみせることで、肉体へと向かわせるか。


つけたし、てか「恋愛とは」のまとめ
「愛、すなわち精神は美しいもので、肉欲は獣のようでけがらわしく汚らしい」や「ヲタクが純愛と欲望の分裂のまっただ中を生きているからである」などという対立そのものが真の恋愛の前では不当なもののである。確かにしばしば肉欲と恋愛はかみ合わないこともあるが、しかしそれらはつねに対立するわけでないのだ。むしろそういった肉欲と純愛の対立を超越した地点において恋愛は始まるし、超越しなければ始まらない。規制と純愛の対立は恋愛へと導くために必要であるが、恋愛対象として相手を絶対化した時点で、社会に、つまり純愛だとか肉欲だとかの社会的な差異に縛られるほうがおかしい。恋愛は卑俗な価値観を超越したところにある(エロゲーマーはこの地点にいるのだから当然自分の性欲と純愛は矛盾しない)。縛られているとしたらそれは恋愛と呼ぶに値しない。失恋して恋愛自体を貶める人間は多いが、それは恋愛の責任ではなく人間様の責任である。責任を恋愛に押し付けて、自分の責任を逃れようとするなど笑わせる話だ。恋愛、いや至高性は全てにおいて肯定し肯定しつくす全肯定だ。

注意・本文では、恋愛(至高性への憧れ)とエロティシズム(侵犯による一瞬の超越性。たとえばエロゲーで見たパンチラとプレステで見たパンチラとではエロさの度合いが違う。むろん後者の方が断然エロい。これが禁(規制)を犯すことで起こる一瞬の超越性)とエロさ(性的なもの)が混じって区別のつかない部分がある。てかそこら辺を組み合わせながら同時進行的に思考を探って文章を記述したので、かなり錯綜した論理展開になっている。だから読めることだけを読もう。これはこのブログの信条の一つです。
posted by doolittle at 08:39| Comment(19) | TrackBack(0) | 思考の坩堝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いままで自分で書いた文章を抜粋してまとめてみた

僕らはすぐに相手を加害者に仕立てて、被害者ぶるとうするし、その誘惑にはよく負けてしまう。しかもあくまでも無意識に相手を仮想敵に見立てることが多い。そして自分が正義だと信じ込む。そこには相手を否定することで自分を肯定する無意識のプロセスがあるのだ。




「倫理とは、己の内から湧き出すものだ。けして学んだり教えたり押し付けるものではない。ただ自己と他者の関係を自覚したときに、倫理は己のうちより自然と生み出ずる。それが倫理になる。自己と他者との関係性を見つめるんだ。そこからしか倫理は生まれない。」

「胡散臭いことを言っているとお思いでしょう。しかし、倫理とはすなわち自分のために行うことなのです。他人の為に倫理を行うのではなく、あくまでも自己の為に倫理を実践するものなのです。それが真の倫理だと私は確信しています。要は自己は一個の他者であります。自己たる他者をつねに考え続けることが倫理に向かうのです。その自己と他者が互いにどのような影響を与えるのかを考えましょう。腹が立ったら烈火のごとく怒りなさい。悲しくなったら声を上げて泣きなさい。ただ、それは自分のためにこそなされるべきなのです。他人がやったから自分もやったなどと、言い訳をしてはいけません。他人のために何かを為すなどと言ってはいけない。それは結局自分を蔑ろにし、或いは自身を傷つけるのですから。だからつねに自身のためにこそ行いなさい」




私たちは互いを理解しあうことはできません。だから何とかして理解しようと努力します。しかし普段の私たちはそのことを忘れて互いに理解しあっているという勝手な解釈の中で当然のようにコミュニケーションを行うのです。つまり私たちは本質的な真実から目をそらし、手前勝手な理解で満足しています。これが他者だけではなく、自分も蔑ろにしているという意味です。他者を勝手に理解することで妥協する。それは同時に相手が自分を勝手に理解することも無意識に容認しているのです。自分が相手をどのように理解するかなんて勝手だ、というときそれは自分もどうのように解釈するかなんて勝手だと自己を蔑ろにしているのです。だからこそ他者を蔑ろにできるのです。

前回の倫理についての文章では、「倫理とは、己の内から湧き出すものだ。けして学んだり教えたり押し付けるものではない。ただ自己と他者の関係を自覚したときに、倫理は己のうちより自然と生み出ずる」といったのです。倫理とは自己を大切にする感情なのです。それが他人を大切にすることに繋がるのです。僕は自己と他者を大切に扱う感情こそを倫理と呼びたいのです。倫理。それは自己と他者を思いやることが出来たときに、はじめて己の内から自然に湧き出るのです。




http://kiri.jblog.org/archives/001277.html

ふむふむ。界隈で有名な切込隊長の文章。んー、いまの僕にはぜんぜん心に響かないや。これは別に批判しているわけではありません。ただ事実として。

《よく分からん。無能だといわれたくない、それはよしとしよう、だがしかしいきなり能力を発揮できる人間は少ない、だから能力のあるなしにかかわらず何かを手がけてみる、仕組みを知るために継続してやってみる、認められるかどうかはともかく、自分なりに形にしてみる、という気持ちはないのだろうか。それが悪いといっているわけではない、ささやかな価値観をはぐくんでいて、それが社会のそれと違うというのは、いまに始まったことではない、誰もが経験していることだ。で、境遇や性格によっては、一人ではそのハードルを超えられない人が一定の割合でいるということだろう。

 しかしだ。しかしだよ。そういった自分一人で未来を切り拓く力が弱かったとしても、自分のために超えられないかわりに、誰かのために、もしくは何かのために力を尽くすということはできないものなのか。例えば、親のために、家族のために、自分と笑って語らってくれる友人のために、共通の趣味を持つ同好の士のために、好いた異性のために、欲しいもののために、組織のために、民族や国家のためにといった、目的を自分以外に持つやり方はしないものなんだろうか。

 嫌われたくない、裏切りたくないといった基本的な自己防衛については分かる。私だって、語りかけて拒否的な反応されたらどうしようとか日常的に思っている。それが厭だから、わざと忙しくしているというのもあるかもしれない。友達ができなくて、無視されるというのはつらいことだ。でもだな。何かを為すために、継続して何かを手がけていく、続けていくなかで見つけられるものは必ずあるのだと、そう思うことはできないのだろうか。》(切込隊長)

いやほんとこの人は頭のいい人だ。文章力もある。なにより多分この文章を読んだ人が感動で打ち震えるような良い文章だ。でもさ、これを真に受けない方がいいと思う。切込隊長が言っていることは結局は理想なんだ。たとえば、環境問題は悪いことだから改善しなければならない。これが理想だ。しかし、実際には環境問題はけして解決しない。解決したいと思う理想を持ってもそれはけして達成されないんだ。目的を自分以外の為に持てといわれても、それが現実に出来ないから苦しんでいるんじゃないのか。他人のために何かを行いと思っていても、それができないから苦しんでいるんじゃないのか。
 どんなに頑張っても、けして他人の為に達成はできない。ただ自分の中で達成したという満足を得るだけなんだ。満足や苦悩は一見全く違うもののように思えるけど、意外とその両者は近い位置にあるんじゃないかと思う。だからこそ、ぼくは、以前の文章(僕が書いた倫理関連の文章のこと)で、ただ自分のためにこそ行えといったんだ。結局達成できる理想など、自分の中のことでしかない。それを外に照らし合わせると、かみ合うこともあるし、裏切られることもある。その繰り返しが人生なんだ。理想は自分の中では達成可能だ。しかし、それを社会にまで敷衍することは失敗の連続になり、成功する可能性は限りなくゼロに近い。これに気づけなければ、いつまでたっても外に向かうことなど出来ない。ただ他人のために行え、友達を見つけろ、と言われても僕は困ってしまう。
 見つけたい、だけど見つからない。その繰り返しだ。これは自分でどうにかできる問題じゃない。ただ向こう側、そこがどこか判らないけど、どこか遠くから一方的に到来するモノがある。そのモノを僕らが能動的に手に入れようと頑張ってもどだい不可能なことだ。自分が望むものが向こう側から到来することを、待つだけなんだ。到来するものを待つ間に、僕らは到来するものを迎える準備をしなきゃならない。もしモノが到来しても、それに自分が気づかなければ意味がない。だから到来するものを迎える準備が必要なんだ。僕らが出来るのは、到来するものを迎える準備だけ。それが到来するかどうかは、ただ一方的に外部にゆだねられる。切込隊長の文章に覚えた違和感の正体は、外部にある、けして手に入らないものを「続けていけばいつかは手に入る」と主張しているからなのだと思う。僕らに出来ることは、何かを手に入れるために続けることじゃなくて、手に入るか判らない、一方的に外部に委ねられたものが到達するための準備だけなのに。つまりだ、環境問題をいくら解決しようと自分が頑張っても、それが実際に解決するかは、外部の問題だということ。個人で空き缶拾いを一生続けたって環境問題は解決し得ない。たしかに続けなければ、解決しない。努力したからといって必ず結果出るとは限らないが、努力しなければ結果は生まれない。だけど、続けたからといって解決する可能性は、自分ではなく、外部だけが持っているものだ。それに気づかずに、ただ続けろとはあんまりだ。
だから僕はこう主張する。
迎える準備をしろ、それから絶望的に到来不可能なものが到来するその瞬間を待つんだ。と。

つまり。絶望に縋るな、希望に甘えるな、ただ準備して待て、しかして契機は訪れん、と言っておりますです。まあそれが訪れるかどうかは運しだい。人生は負け続きのギャンブルだ。でももしかしたら一発大穴があたるかも?な精神でいこうぜ。「大穴は当たらないから大穴って言うんですよ」って栞が隣で言ってる。 



僕がいなくなっても世界は何一つ変らずに毎日の営みを続けるだろう。僕が世界に抵抗しようが、あるいは世界に服従しても、それはいずれ誰かによって達成されるに違いない。そして今日も変らずに世界は動き続ける。たぶん、それは間違いない。僕ら自身が、オリジナルとしての価値を失い、ただ代替可能なモノとして扱われている。おれは「代替可能なモノをやめるよ」と抵抗しても意味はない。社会的に従属する学生を辞めて、家に引きこもることで抵抗しても意味はない。学生はすぐに自身の代わりに補充されるし、自分はひきこもりという社会的価値を与えられる。代替物から、違う代替物へと移行しただけだ。逆に僕が積極的に社会に関与したとしても、社会は何一つ様相を変わることなく、自動的に営みを続けるだろう。肯定的な行動であろうと、否定的な行動であろうと、世界から見れば僕らの行いなんて大差ないし、僕らも関与できない。現代とは自らの意思が無効化される時代だ。そして僕らはその時代をいき続けなければならない。
 


煩悶、苦悩、痛み、悲しみ、停滞、無意味、無価値。人生のおいて負の側面と見なされる全てを僕にください。それら全てで僕を完膚なきまでに覆いつくしてください。僕を苦しみに溺れさせてください。なぜならそれは僕をより高みへと追いやるものだから。煩悶や苦悩は、僕に考えることを強いる。だからこそ僕は考えることで、そこを突破できる。つねに高みへと目指してゆける。楽は僕を成長させない。だから僕は苦しみと悲しみを喜んで受けよう。苦しみと悲しみに支配されている間は停滞と呼ばれる。ただ遅延してゆく存在。だからといって落ち込むな。停滞は上昇へ向かうための予備動作だ。とまらなければ思考できない。考えなければ成長しない。苦しみ、煩悶、苦悩、不安、これら全ての感情を僕にください。そして停滞させてください。僕は自らの思考で停滞を乗り越えてみせよう。より高みを目指してみせよう。なによりも自己育成のためにこそ行おう。自己の願望が達成されなくても、自己の人生を全肯定してみせよう。最終的に意味のない人生を肯定するか否かは、自分に委ねられているのだから。




以上、ここ一ヶ月書き溜めた文章でした。論理的厳密さは皆無だし、日本語の体を成していない文章が数多くあり、それ以前に何を言っているのか理解不可能な箇所があっていやになるけど、でも論理や文章の巧さではけして到達し得ない主張もあるのではないかと思う。つまり多少は本質直観した部分があるんじゃなかろうかと自負しているわけだ。まあ突っ込みどころは満載だけど、それを差し引いてもさ。


最近、本が面白くてたまらない。以前より内容を深く理解できいるような気がする。頭の良し悪しが変わったわけではなくて(文章を読めば判りますが、ところどころに知能指数の低さが見て取れますね)、認識的な転換というか、要は気の持ちようが変わったのだと思う。ほんとにそれだけのことで人間は変われる、少なくとも心情的には(約半年ひきこもりやっているけど、今年は留年を確信したけど、だから両親をどう説得しようか本気で悩んでいるんだけど)変われると思う。それだけで本をより楽しく読めるだから万々歳。
あー、でも他人が苦手っては一生変わらないし変えられないでしょう。こればっかりは気の持ちようでどうにかなる問題ではないしなあ。まあ確かに変わればよいとは思うけど、変わらないからといって自分を嫌うことはしない。自分にとって良いことも悪いことも含めた全てに、悲しみ、喜び、怒り、楽しみ、悩み、否定、肯定、欲望その他もろもろに対して然りと答えるだけさ。それでよし、なんだ。僕は自分が好き/嫌いだからさ。
(自分自身の場合はそれでいいだけど、他人が苦しんでいる場合はどうするかってのが今後の課題なような気がする。他人に対しても然りじゃいかんしなあ。日々精進なり。自分の思想をぶっ壊して、立て直して、他の思想と対立させて相対化し、つねにその妥当性を調べる。信念とか確信とかが壊れる瞬間ってすごく刺激的だ。その後でなんか一歩前に進めた気がするし、まあ自己満足かもしれないけど。たとえば自分の脳みそを実験室に見立てるなれば、薬品を試行錯誤して研究したすえに配合を間違えて大爆発、体はぼろぼろだけど気づいたら新薬が完成していて結果オーライって感じかな。自己批判と自己否定は違うのよね。自己批判は実験の一種で、自己否定は自分と他人を一緒に駄目にするんじゃないかと思う。自己批判は前に進むための手段だが、自己否定はそれ自体で満足する、つまり自己を認めることができないから、自己を認められないこと認めて満足する。自己という指針がないことに堪えられないから、目標がなこと自体を目的とする。それは歪んだ自己肯定であり、思考停止に他ならないのではないだろうか。)

あと世界に対して何かをしてやろうとか社会的に認められたいという欲望はあるけど、それが満たされるかどうかは、僕ではなく外部の側に決定権がある。すなわち僕が世界にむけて行為したとしても、影響を及ぼすかもしれないし及ぼさないかもしれない、あるいは自分の存在をすら気づかれずに一生を過ごすのかもしれない、これらの事態は自分ではどうにかして改善できるものではない。それは自分の知らない超越的な世界においての出来事だ。だから僕が出来るのは、見つかるまで自分を磨いて待つのみである。たとえその欲望が一生満たされることがなくても(その可能性がほとんどだ)、僕は人生を肯定するつもりでいる。その覚悟は決めた。本とオタク系文化を消費して人生を充実したものにしてやるさ。全てが然りだ。OKべいべー。人生を肯定できない全ての人間にファッキンライト。
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2005年01月26日

月詠 16話目

良い話だった。前回で耕平と葉月の関係はぐっと近いものとなったが、僕にとって二人は恋人というより兄妹の関係に当てはめる方がシックリくる。葉月を優しく見守り構ってあげる耕平のお兄ちゃんっぷりに安心するからである。饅頭を取ったカラスに仕返しをする葉月は、やっぱりまだ子供で、男女の関係に進展するほど成熟してないし、また耕平もそいった関係を望んでいない。今回の話を乱暴に要約すれば浩平が葉月の写真を撮るという本当にどうでもいい話であり、同時に二人の兄弟に似た心地い関係とそれを暖かく見守る人々を描いた幸せなお話である(月詠全編に言えるが、外野からの視線がつねに優しいくて安心できる)。いままでどたばたとした話が続いていた月詠で、こういった意味のない日常をありのまま描かれるとは予想外だった。まあ嬉しい誤算と呼ぶべきか。

さっき僕は二人の関係を兄妹みたいといった。でもやっぱりそれはみたいでしかなくて、フリをすることは幸せなことだけど、いつまでも続けることは叶わないくて、ふたりは赤の他人であることはいやでも意識される。撮影を終えて自宅に向かう車の中で、無防備に眠る葉月を見て耕平はその事実を意識せざるを得ないし、葉月もお風呂で似たようなことをエルフリーデに告白する。そういった微妙な関係によって成り立っており、互いに相手を思いやりことが二人の関係を保障しているし、周囲の人々も手助けしてくれる。またアニメの冒頭と終盤で敵の存在をほのめかすシーンを挿入することで、より効果的にたわいもない日常が貴重なものであり、いつまでも続かない終わりのあるものだと示す。終わりの予感を漂わせて、つかの間の平穏な日常をみせるってのは少し技法として卑怯だよなと思うけど、まあ物語のセオリーどおりにあっさり転んで、いつまでもこのどうでも良いアニメを見ていたいと思い、幸せをかみ締めたわけだ。優しい日常にたいして僕は愛しい気持ちを抱いたとさ。そんな16話目でした。
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2005年01月24日

みーの仮想敵

福圓美里新谷良子

理由は聞くな。


posted by doolittle at 01:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヤンマーニ

(`・ω・´)<ンー!?
( ゜∀゜)<ヤンマーニヤンマーニヤンマーニ
(´Д`)<ヤーイヤ!
( ゜∀゜)<ヤンマーニヤンマーニヤンマーニ
(´Д`)<ヤーイヤ!
( ゜∀゜)<ヤンマーニヤンマーニヤンマーニ
(´Д`)<ヤーイヤ!
( ゜∀゜)<ヤンマーニヤンマーニヤンマーニ
ヤーイヤ!
ヾ(゜∀゜)ノ
  (  ) 
 < <


くそどうでもいい話だが、梶浦由記曰く実際はヤンマーニって言っていないんだとさ。残念だ。

これの挿入歌の話ね。

マドラックス役の小林沙苗は、最近ではサクラ大戦5のヒロインにも抜擢され、目を見張るような活躍をみせているが、過去ではピックパイナップルの傑作・顔のない月OVA版に出演し、艶技を存分に魅せてくれた。ヒロインの鈴菜がツンデレ系の見本のようなかわいい娘で、しかもこばさなボイスであえぎまくりのよがりまくりだったから、僕の海綿体に膨大な量の血流が走ったもんさ。艶技自体は少し平淡で物足りないのだが、なんとも腰にくるものがあった。頑張っているのは分けるけど微妙に吹っ切れてない演技が逆にエロさを生んだというか。つまり艶っぽさが足りなくてエロくないんだが、そのエロくなさが喘ぎ声にリアリティを与えてこうぐぐっと屹立してしまった訳だよ。でもこの裏事情は声優界の黒歴史だからここだけの秘密だぞみんな。自分のヰタ・セクスアリスを堂々とネットに開陳するなんてこれぞ本当のオナニー文章だな。あふん。
posted by doolittle at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビ関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月23日

グレネーダー ほほえみの閃士 3話目

シナリオの構造に多少欠陥があっても、テーマ性に上手く物語を落とし込めれば説得力が生まれて結構感動できるものなのだなあ、っと素直に感心しました。面白かったです。次週も楽しみにして待ちます。

このアニメ、ただ乳揺れアニメじゃねえっす。たわわなおっぱいにもきちんと意味があるんですよ。つかんで揉みしだきたいとか、胸に顔をうずめて窒息したいとか頭の悪いことばっかり思ってはいけないよ君たち。まあぜんぶ僕が思ったことなんだけどさ。

おっぱいの意味その一
胸の谷間に挟んだ弾丸を乳揺れの反動で飛ばしてリロードする。名づけてこれおっぱいリロードと呼ぶなり。この製作者の正気を疑いたくなる天才的な発想には恐れ入った。

おっぱおの意味その二
豊満な胸で優しく包み込むことで、敵の戦意喪失や感情を落ち着かせる鎮静剤の効果、あるいは逆に興奮を促すなどのさまざまな効用を持っている。敵味方分け隔てなく効力を発揮する万能おっぱい。一家に一セットは欲しいおっぱいだ。ぼよーん。

いやつまり、僕はおっぱいの素晴らしさを語りたいだけなんだけどさ。おっぱい最高!! 賞賛できるならば、頭の悪いかわいそうな子という不名誉な呼び名も喜んで受けようではないか。


うーむ。我ながら大学を登校拒否してひきこもりをやっている人間の文章とは思えない(衝撃のカミングアウト)。
posted by doolittle at 05:50| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビ関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月22日

なんとなく

深い理由もないのだけれど、なんとなく全ての記事を非公開にしてみた。まあ読むだけ時間の無駄でしょ。

追記。
サイトの景観が寂しすぎで僕の心がむなしくなったので、幾つか無難な記事を復活させました。
posted by doolittle at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月20日

『ef - a fairy tale of the two』を発表したminori

http://d.hatena.ne.jp/moonphase/20050119

minori「ef - a fairy tale of the two.」2005年秋以降発売予定

原作・脚本・監督:御影

キャラデザ・原画:七尾奈留


うわーい、もう一度オリジナルスタッフが関わるDCワールド(の亜流)を味わえると思うと幸せで胸が躍る。まず曲芸のDCメンバーをまんま起用したminoriに拍手を送りたい。曲芸が確立した方法論を恥ずかしげもなく適用するminoriを賛美したい。商業的な成功は約束されたも同然だ。DCのスタッフを使えば(会社としては)うはうは間違いなし。その事実に対して自覚的であろうminoriは、魂胆も丸見えで素晴らしく志しが低い。二匹目のドジョウを狙っていることが明らかだ。いや脚本の御影さんや俺の奈留には全く罪はないのだし、素直にDCスタッフが再集結したことを喜びたいのだけれど、minoriはそれで良いのかしら。良いんでしょう。大人の世界だし。でもここまで明け透けな態度で作品のコンセプトを立てられると、こっちが恥ずかしくなるよね。そんなバックグラウンドは作品自体には無関係極まる事情なので、ゲームは発売日に買いますよ。文句あるか。

きゃんでぃそふと「つよきす」夏発売予定。
強気っ娘ADV。ターゲットはツンデレ少女。物語は『ツン』と『デレ』の2部構成。シナリオ:タカヒロ、原画:白猫参謀。

LOVERSOUL「盗んでmy Heart」春発売予定。
シナリオ:夏葉薫・山本豪志、原画:戌角柾。女怪盗と、その片棒を担ぐ事になった主人公とのドタバタADV。


ここらへんも期待大。タカヒロさんらぶー。薫たんらぶー。キスさせてください。と、頭の悪い感想しか出てこないが、本気で楽しみなんで発売日が待ち遠しい。早く出ないかなー。

ちなみに今日の情報はかとゆー経由ですが、何か。
posted by doolittle at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月19日

応援

http://www.za.ztv.ne.jp/hirasakayomi/index.htm

何も言わず上のサイトを見れ。日記を読め。思い付きを文章化しただけというか、情熱だけでキーボードを叩いているだろうてめえと思ってしまう。文面からは作者の熱いパトスがほとばしっている。無駄に熱すぎる。それが気持ちよすぎる。感じろ。ほんとうにすげえ。この人。すげえくらいに頭がわりい。頭を使えよっと思う。センスはすごいくらいに洗練されていない。すべてがだせえ。もう大好きだ。

doolittleは平坂読氏を誠心誠意応援します。近いうちに小説も読みたいと思います。
posted by doolittle at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月18日

だめぽ

テキストは容易く人の感情を支配します。好きなものを嫌いにさせたり、歴史上の残虐非道の悪人を聖人君子に生まれ変わらせたりするのです。どういうことでしょうか。
たとえば「世界には始まりがないし終わりがない」という命題があります。世界に始まりがあったとするならば、それ以前に無の空間が想定されます。しかし無から有は生じません。だから世界には始まりがないのです。つまり世界は無限であるという結論が導き出でます。
では反対の命題を考えて見ましょう。「世界には始まりがあり、終わりがある」という命題です。世界に始まりと終わりがない、つまり無限と定義したならば、いま私たちのいる現在という時間自体がなくなっていまいます。無限ならば時間が存在はずです。しかし私たちがいまここいることは、自明の事実です。だから世界は無限でなくて、始まりがあり終わりがあります。
ここでは二つの背反する命題が共に成り立っています。両方の命題にもそこそこ説得力があり、どちらも真実と見なせます。
じゃあ実際にはどちらが真実なのか。答えを言えば、どちらも真実ではありません。これは想定した命題そのものが間違っているからこそ起きたパラドックスなのです。つまり答の正否以前に、問いかけ自体が間違っているのです。しかしみなさんはこの間違った命題とその証明を読んだとき、どちらもナルホドねえ程度には納得できたと思います。
これがテキストは容易く人の感情を支配されるという意味です。文章は間違ったものを正しいと錯覚させます。つまり文章の記述しだいで人間の心情を簡単に左右し決定付けます。だからテキストを読んであなたが思い抱いた感情は必ずしも真実とは限らないのです。感じた情動は確かに本物ですが、しかしそれが事実と食い違う可能性を孕んでいることをつねに考慮しましょうね。

この記事の一部削除。
http://tiyu.to/title.html#17_01_19
を読んだら、そのほうが賢明かなと思って。禍の芽は早いうちに摘み取るに限る。まあもともと不用意で悪趣味なことを書いたなとは思っていたのだけれど、にしてもだよ、ネット世界はこわいよ。

ほらちゆを読んだだけで僕の行動が決定された。テキストってすごいね。
posted by doolittle at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月15日

論理哲学論考 (ヴィトゲンシュタイン)

難しいかなと思って読んでみたけど、笑ってしまうぐらいに当たり前のことしか書かれていなかった(難しいけど)。その当たり前のことを極限まで論理的に突き詰めて、分析し、解体し、いっぺんの曇りもない明晰な叙述によって記してある。その世界のあり方について思考する壮大な論理展開はあまりに完璧すぎる。ケルン大聖堂を思わせるような美しくも圧倒的な論理の建築物。これは完璧な美しさを誇る円だ。思考の限界を解明し尽くし、その果てに現われた球体だ。ここには一つの思想の極限が刻印してある。

しかしヴィトゲンシュタインは自分で作ったその完璧な構築物を『論考』の最後に全て投げ捨てる。「梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない」と言って、論理の限界を突き詰めた過程を、『論考』で構築した完璧な論理を葬り去る。論理的に世界の全貌を描き出した後、彼は「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と言って『論考』を終わらせる。

人間が論理的に思考する限り、けして論理の外にあるものには到達できない。自分の存在を、世界の存在を証明することはできないように。だからこそ、

「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」

んだよ。論理を超越した神秘、それは世界があることそのもの自体なんだね。

食わず嫌いせずに読めい。世紀の名著。世界について語りつくした、スリリングでこの上なく刺激的な思考実験だ。その論理の展開を読み進めること自体が快楽だったな、僕は。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003368916/250-4284301-9425008
posted by doolittle at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 本など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月13日

水月 (エフアンドシー)

透矢 「それじゃあ現実と夢の境目って、なんだろう?」
那波 「今この瞬間、見聞きし、感じている夢。それが現実なんだと思いますわ」
透矢 「じゃあ、僕らが夢だって言っているものは…」
那波 「夢を見るという、夢ですわ」
  そして、夢を見るという夢は、夢を見るという夢という夢になって…
透矢 「無限退行…?」
那波 「ええ。やっぱり、すべてつながっているんですわ」



本当の現実、まじりっけなしの現実、石のように強固で確かな現実などは存在しません。つねに不安定に揺らぐ夢を、一瞬のきらめきに宿る夢を、そのどちらでも僕が現実だと意識するならば、それは現実として価値があり、意味のあるものなのです。僕が現実だと認識すれば夢は現実となりえます。そもそも意識という存在自体が、あいまいで不確かなひとつの夢みたいなものでしょう。その意識という夢に囚われた僕らが、なぜ現実を一つの夢と見なすことに戸惑う必要がありましょうか。

もしかしたら黄昏どきの海辺で涙を流す女の子と通りすがりの男の子が恋に落ちて二千年前の伝承を再現したり、メイドさんと子供は願いを込めたうさぎの風船を月へと送り、その光景を男の子は呆然と見届けたりする、そんな夢があるのかもしれません。他の夢では、学校で隣の席に座る女の子と紆余曲折な回り道をして恋人になったり、誰もいない教会で双子の女の子たちと一緒に幸せに暮らしていたりもするのでしょう。ときには長馴染みの巫女さんを悲しませて、それでも僕だけのメイドさんを探してマヨイガへと向かう、そんな切なくて優しい夢を見ているのかもしれないのです。

そのどれをでもぼくらが現実だと思った瞬間にそれは紛れもない現実となります。さまざまな出来事を、複数の夢を同時に認識するならばそれらは全て僕にとって現実になるのです。それは結局、楽しくて幸せな日常を肯定し、悲しくてやりきれない出来事を肯定し、矛盾を起こす事象を矛盾のままに肯定し、肯定を肯定し、否定をも肯定し、つまり全ての現実を肯定することに他なりません。それら全てをないまぜにした無限の可能性を僕らは人生に見出してもよいのです。

夢は夢によって紡がれ、物語によって夢は人々に伝えられ、夢と夢との合わせ鏡によって永遠が姿を現し、その狭間でたゆたう僕らは少女たちと共に戯れて、少女たちは無数の僕らと共に夢を見る。そこでは過去や現実、未来の枠は取り外され、夢と現実、虚構と真実などの対立を持ち出す必要はこれっぽちもなく、ただ全てが等価なのであります。そのとき現実と虚構という狭い枠を飛び越えて、僕らは彼女たちと出会えるのかもしれません。

夢は誰か一人のものではなく、みんなで共有するものです。例えば和泉ちゃんは、試験勉強をした時に透矢くんと恋人になった夢を見て幸せにひたり、一方で透矢くんを親友の花梨に取られてしまう悲しい夢を見ているのです。嬉しくて心が躍る夢、悲しくて胸が締め付けられる夢、全てが僕らのものであり、彼女たちのものでもあります。僕たちが何人もの少女たちと出会うように、少女たちも彼女たちだけの男の子に出会えるのです。彼女たちは、僕だけのモノではなく、みんなものであり、僕らもまた彼女たちのモノの一つになりえるのです。無数の夢の中、はじめて僕らと少女たちは対等な存在として互いに向き合えるのではないでしょうか。

これらの事実に気づいた時、僕はあまりの幸福感に子供のように泣きじゃくりたくなるのでありました。


あまりに優しくて幸福な夢を見させてくれるもんだから、こんな変な感想を書いてしまった。電波度は高いけど、自分では結構この文章好きっすよ。この感想は自分の中でとある人に捧げています。

http://www.fandc.co.jp/suigetsu/
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2005年01月09日

『趣都の誕生 萌える都市・アキハバラ』(森川嘉一郎)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4344002873/249-6940580-9107549

いまさらこの場末のブログで取り上げるまでもなく、高い評価を受けた名著ではあるが、しかし読んだからには紹介しなければなるまい。何がなるまいだ。嘘言っちゃいけない。何かこの本について書かなければいてもたってもいられない気分になったのだろう。読後に受けた感銘が大変深いもので、思わず感想をでも書き綴りたくなった、ただこれだけのこと。

自分がオタクだと少しでも意識したことのある人には、ぜひ読んでもらいたい。ただしこの本を読む際は、ハンカチを用意して、「泣きながら一気に読(cv・某シバサキ)」んでください。ページごとに秋葉原に対しての愛が溢れていて、もうそれだけで感動して泣けてくる。いや一見すると淡々と事実だけを描出していくそっけない文章のように思えるかもしれないが、しかし抑制された表現の中にはオタクに対しての優しくて愛しさに満ちたまなざしが潜んでいる。僕らが読めばそれをすぐに了解できるはずだ。セカチュウなんて目じゃないね。オタクならこれで男泣きしろ。

 内容をごく簡単に紹介すると、宮崎学が起こした幼女誘拐殺人事件以来大迫害を受けたオタクたちが、趣味という個人的な符号の名の下に、渋谷の裏通りから秋葉原へとエクソダスし、オタクの一大国家を建設するまでの過程を描いた感動巨編だ。普通街の外観や特色は、国の政策であったり、民の流行が影響を及ぼすものだ。新宿や渋谷なども街ごとにそれぞれ特色があるが、結局国である官か民の影響下で形成されたものだ。しかし我らが約束の大地アキハバラはこのどの例にも当てはまらない。本来個の単位である趣味の人々が自然とアキハバラへと集って、街の特色を決定付けてしまったのだ。官でもなく、また民でもなく、個という単位のみで街の外観をオタク色に染め上げた。別に誰に言われたわけでもなく、個と個の集積によって街のそのものを変化させたのである。街一つをまさにオタクのお宅に発展させた訳だ。雑然とした印象を与えるかの地だが、本書を読了後、巡礼してみれば一つひとつの風景がいとおしくてならん。この景観は我らオタクの手によって作られたものなのだ。街を歩くデブオタ、キモメン、アキバ系の人々に対して深い愛情すら湧いてくる。これらの人々のおかげで、大都市東京の一角に趣都を誕生させることが出来たのだ。これをオタクの勝利と呼ばず何と呼ぶ。

 僕がこの書物に副題を付けるなれば「オタクの国へのエクソダス」とでも名づけるだろう。むろん元ネタは某村上のこれ(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167190052/qid=1105194749/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-6940580-9107549)なのだが、つまりだ、ここではオタクの国=希望の国という等号式が成り立つのだ。そうだったのだ。つまり希望の国とはオタクの国である秋葉原のことだったのである。いまこそ形骸化した社会の鎖を断ち切って、僕らは趣都・秋葉原へとエクソダスするべきなのだ。さあ行こう。オタクの国の秋葉原へと。さあ読もう。『趣都の誕生 萌える都市・アキハバラ』を。本書は世紀の名著だ。オタクの千年王国が建設される日が近くにまで迫っていることを知らせる福音書だ。

 最近某政治家は、秋葉原は国の恥であると言って、不当な圧力によって我らの聖地を破滅に追い込まんと画策しているが、我々はそのような圧制に負けぬために、日々戦わなければなるまい。個によって集いし勇士たちは、役に立たないくせに文句だけは付ける官の陰謀に屈してはいけないのだ。オタクよ、いまこそ立ち上がれ! 趣味によって社会を塗りつぶすのだ! 

 と、まあこんなことを思わせてくれる素晴らしい本なので、オタクな人もそうじゃない人も機会があれば一読あれ。気鋭の都市論としても面白く読めること間違いなし。お勧めである。

(今回はオタクを全面的によいしょしまくったから、そのうちオタクの駄目な部分をバッシングしなければ。バランスバランス。全肯定は気持ち悪いからね)
posted by doolittle at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 本など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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