2005年02月12日

風呂あがりに

鏡で自分の顔を見たら、あまりにホモっぽくて笑えた。髪型が全体的にもっさりとしてうざいのが原因なんだと思う。前髪の垂れ具合とか特にそれ系の人っぽい雰囲気をかもし出している。あはは。笑い事じゃねえよ!! リアルで泣くぞ。
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2005年02月11日

まあ

そんなこんなでお姉さまがいま僕の家にお泊りしてます。かいがいしく洗濯物を洗って干してくれたりキッチン周りをきれいに掃除してくれたりと素敵な世話女房っぷりです。なんだかんだで家族の愛を感じました。実はぼくは両親や兄弟から多くの愛を貰っている気がするがしかし。

人に愛されなければ人を愛すことはできない。だけど人に愛された記憶が人を愛すことに繋がらない人間からしてみればこの言葉は残酷だ。まるで人に愛されたならば、人を愛すことは当然だと言われているみたいでつらいんだ。人に愛されることと人を愛すことは等価じゃない。ごめんよ、家族。

近いうちに実家に帰るので、その間ここは更新されないのでよろしく。

今日の文章はあれだ、少し背伸びしたい自意識過剰な中高生がやってしまいそうな恥ずかしいポエムみたいだな。
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こんにちは

気の違ったような量と質の文章を量産した躁病状態から無気力でネガティブな気分を嫌なくらいに味わう鬱病に症状が移り変わり、人生の帰り道を見失ったdoolittleです>挨拶

ここはどこですか。目の前が真っ暗です。何かをつかもうと手を伸ばしても空を切る。しかしつかもうとする手だけはたしかにある。どこにたっているのか判らないが、自分がどこかにたっていることは間違いない。自分は存在するのに、ほかのモノで実感を得ることができない不安。ぼくはこの状態になると、死にたいと口に出してしまう。別に死にたいわけではない。ただ死にたいと言葉にするしか表せない不安なんだ。さえない日常、停滞、憂鬱、先が見えてつまらない将来なのに、目の前が不透明で曖昧な毎日。まとわりつくむなしくて重苦しい空気の中で、死は限りなく観念に近づけられ、自分の死や世界の終わりという突飛な出来事にしかリアルを感じられなくなる。この地点においてふっと向こう側に消えて死んでしまうような気分におちいる。しかし自分はいやでも存在しつづける。それがいやだ。たしかな実感が欲しいんだ。

ところで文章の冒頭に「>挨拶」って置くのは、使い勝手はいいけどアホっぽいからそろそろやめないか。やっていると頭が悪く見えるよ。僕はやめるよ。みんながやめたら。
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2005年02月07日

Femme Fatale

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2005年02月06日

なぜかこどちゃを見てるんだけど

いまさらアニメでは絵コンテも重要だと気づいたぼくはアホですか。やっぱ大地丙太郎が絵コンテを担当した話は段違いに出来が良い。昔は監督と脚本家の名前にしか目を向けてなかった。むむ、なってこったい。まあ、ぼくはアニメをあんまり見ない人だし仕方ないよね(言い訳)。

あ、やっぱこどちゃはさいこーのアニメの一つですな。よく出来た人間ドラマとしても一級品です。特に十九話目なんて素晴らしい。頭悪い感想でごめん。


話は飛ぶけど、幾原邦彦はもうアニメの仕事しないんか。ぼくこの人好きっすよ。アニメ自体は悪趣味で病的でマニアックなんだけど、それを意識的に解体しようとする知的な批評性が良いと思う。ウテナも見直すかな。
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2005年02月03日

紙屋研究所さんへ

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tosiue-no-hito.html

ここへの返答ね。

僕の透谷解釈は不当に歪められおり、そこに一切の弁明の余地はありません。あと「近代的自我の発生についての箇所」はほんきで忘れてください。思いつきで書いたんですよ。これらの不用意な発言については深くお詫びを申し上げます。同時に今後、そのような適当な発言を慎むので、どうか僕を見捨てないでやってくださいまし(みなさま)。で、だから今回の返答は透谷に関しては一切触れず、ただ自分自身の純愛と獣欲についての持論を述べるにとどめます。つまり細かい箇所を指摘してゆくと議論は間違いなく平行線になると思うので、そこら辺はばっさり切り捨て、僕が思っていることを挙げ連ねてゆくってことです。僕の文章力では完璧に説明することはできないと初めから諦めているので、この文章をどう解釈するかはみなさまの判断にお任せします。

僕は恋愛によってセックスを押しつぶしてやろうなんて毛ほど考えていないし、「純愛と欲望がそれぞれもっている豊かさや複雑さをすっぱりと捨象」するつもりもない。まあ以前の文章では恋愛の観念でセックスを支配するというふうに取られるもの当然だったと思う。だからここで訂正する。恋人たちの間では特別意識しなくとも純愛と獣欲はうまく統合されていると、僕は思っている。恋人たちは、普通に日常の延長としてセックスしたくなったらセックスして、好きだと思ったら好きだーとか甘えたりと、そういう自然な関係の中で、獣欲を解消し、純愛を楽しんだりしている。特に男の方は、恋愛のためにセックスするのではなく、単純にやりたいからセックスをする場合も多い(『河よりも長くゆるやかに』の主人公は明らかにそうだよね)。そこでは基本的では獣欲がどろどろや純愛はきらきらという観念には支配されいない。獣欲が汚いも純愛は素晴らしいも、ともに社会的な観念の一つだ。普通、恋人たちは、そういった社会的な差異の体系から逃れている。他の誰かとの比較を超えて、絶対化した相手だけを゛恋人と呼ぶのだ(肉壷としての恋人を求める人もいるけどさ、それは恋人じゃなくて物だ)。だからその地点では、恋人たちは獣欲や純愛のどちらかを比較することなく、等価として恋愛を楽しみ、自然に獣欲を発散する。獣欲(現実)と純愛(観念)は、どろどろと渾然一体なのではなくて、凹と凸みたいにきれいに接合されるものだと僕は考えている(僕と紙屋研究所さんとではこの箇所の考え方というか表現の仕方が一番違ってるんだと思う。たぶん僕は、純愛を伴うか否かの以前に、肉欲自体を汚いものだと考えていない)。セックスも純愛もともに現実の中で自然と統合される。つまり「純愛とセックスは本質的には分裂」しないと僕は考えている。

もっと根本的なことをいうと、恋人たちは、ただ純粋にこの人に近づきいたいという身体性から生まれる想いによって恋愛やセックスをしているのだと思う。身体性から生まれる想いについて説明すると、人間は、言葉を持たない猿だった頃から、群れを成して生活をしていた。だから人間になってもその名残として肉体自体が他人を求めずにいられない。猿が群れを理屈以前に作るように、人間も獣欲とか純愛とか以前に人間を求める生き物なんだと思う。だから乱暴だろうが、セックスも恋愛も本質的には同じものだと思っている。つまり「私はこの人に近づきたい」という人間になる前から持っていた当然の想いだ。人間の肉体から湧き上がる自然な感情だ。恋愛やセックスなどは、人間が当然求める行為としてそこにすべて還元される。恋愛やセックスは恋人たちにとって「この人に近づきたい」という感情を表わすための一つのヴァリエーションに過ぎない。

肉体だけでは空しいし、空想だけでも苦しい。普段の僕らは首から上のみを使って、肉体を蔑ろにすることが多い。だから二つの分裂したものではなく、うまく統合することで、肉体によって思考し、頭によって感じたいんだ。現実の豊かさも、観念への憧れもともに組み合わせたたうえで生きてゆきたい。その点、(一部の)恋人たちは、セックスと恋愛をうまく統合して、思い思われ、感じ感じられる理想の関係にあるのだと、少なくとも僕はそう思っている。

とまあ僕自身も紙屋研究所さんの意見にだいたい同意してますね。ただ互いに獣欲と純愛との本質の捉え方が異なっている以外。もともと僕自身も恋愛とセックスをともに尊重する文章を書こうと思ったんだけど、いろいろと筆が滑ってしまったのですよ。あと僕の文章を読んだ人はところどころ矛盾した箇所があると思われるかもしれませんが、個人的にはそれは矛盾ではありません。いや宣言されても困るだろうけどさ。まあただの言い訳ですけどね。

てかご指摘ありがとうございました。適当に書き散らかして放置していたので、紙屋研究所さんの批判は身に沁みるものがありました。日々精進したいと思います。
posted by doolittle at 21:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 対話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月02日

敵と共生することの難しさ

「不愉快な隣人が登場して、あなたとしてはたいへん不愉快である。しかしこの不愉快な隣人を排除してしまったらあなたは人間ではない。敵はあなたの隣にいる。それは弱い敵である。弱い敵はあなたの隣人であって、あなたはその人を迫害したり排除したり、その人の権利を奪ったりすることができる。けれどもそれはしてはいけない。あなた隣人にその人がいることによって、あなた自身の快楽は阻害されている。あなた自身の自己実現は邪魔されている。あなた自身の快適な日々はさまざまなかたちで妨害されている。にもかかわらず、あなたの権利、生命、財産を脅かすその弱い敵と共存しなさい。その人があなた自身の快楽を減滅し、あなた自身の自己実現を妨害する権利を守りなさい。その人となんとか話し合ってください。なんとか折り合いをつけてください。かりにその人が邪悪な人であったとしても、それを根絶して、この世界に「最終的な解決」をもたらそうと考えてはいけません。その人をが嫌いならば嫌っても良いのです。その感情は理性でどうにかなる問題じゃない。ただその人を排除してはいけないのだ。」

「うぜえ。異常に説教くさいし。だいいちそれができたら苦労しないんだよ。人間は自分の行為に対して無自覚だ。何も考えずに平気で人を踏みにじるそいつらの愚鈍さが、僕は大嫌いだ。僕はそいつらと同じように思いを踏みにじり、想いを蹂躙してやりたい。圧倒的な力で弄んでやりたい。人格のすべてを完膚なきまでに否定し、ぶっ壊してやりたい。恐怖で顔を歪ませ、絶望に支配された人間をぶっ殺してやりたい。この世の全ての無知蒙昧で愚鈍な人間を排除し、排斥し、根絶し尽くしやりたい。これらの感情を誤魔化して生きてゆくのが大人になるってことならば、ぼくは大人になんかなりたいくない。」


「上記の文章を微修正した。ん、どっちが本当に俺の主張したいことかって? 両方に決まっているだろ。そうやって意見を一方的にまとめて単純化したがる人は、えてして想像力が欠如している。あんたの感情は、ある片方の意見を支持すれば簡単に折り合いのつくものなのか。違うだろう。人間の感情はそんなに単純ではないだろう。人はいつも世界が単純に出来ていると思いたがる。しかしその期待はいつも裏切られる。世界が複雑であることを認めるべきではないのか。言葉を使って自身の問題や深甚な事態を単純化したがるが、大抵その人の言うことは多かれ少なかれ間違っている。なぜみんな間違ったことを平気言うのか。それが楽だからだ。単純に考えると物事が明快に見渡せる。しかし事態を一義的に決定することは不可能なんだ。そのぐらい直感的に判るだろ。世界とは矛盾の総体のことなんだ。世界を一義的に決定することの難しさと不可能性をこそ知るべきだ。それなのに無理やり言葉で当てはめようとしても必ずどこかにほころびが生じる。だから僕らは二つの意見の間でどちらが本当か嘘かで絶えず悩むべきなんだ。二つの間の意見に身を引き裂かれて、苦しむべきなんだ。それらから可能な限り、真実の近似値を自分の手で導き出してみせろ。楽するんじゃないよ。必要なものは、問題を真正面から見つめてみせる決意と強さだ。そして真実は何処にもないという絶望を知れ」

「ん、いま僕も問題を単純化しただろうって? そだね。だから僕は絶えず不安を感じてる。自分の言った主張が次の瞬間、単純化されることを恐れている。自分が何か間違ったことを平気で口にしたのではないかと思って、不安に苛まれる。自分が変なことを書いているのではないかと心配でたまらないんだ。不安。しかしそれは自分の持論を絶えず検証し、他人の意見に照らし合わせようと強制するものだ。それは次の段階へと発展させる契機に繋がるものだ。それは問題を単純にしないための手段なんだ。自分の答えが間違ってると疑う人は楽観的に物事を決めることをしない(それが本当なら僕は少し楽観的に過ぎるな)。その人たちは粘り強く物事を思考して、つねに自分の言動の正否を確かめる。不安を感じることで、物事を単純に考えようとする自己欺瞞を一刀もとに切り伏せる。自分が楽することを許さない。だから僕らもそれを見習うべきだ。ダブルバインドに捉えられ、身動きできなくなるぐらいにきつく締められろ。汚わいにまみれて、人生にあがいて、水の中で溺れてみせろ。でもたまには肩の力をふっと抜くと案外簡単に水面に浮かび上がってこれるかもしれないぞ。そういうふうに押したり引いたりを繰り返して、自分にとっての真実の近似値を割り出そうと努力したとき、自分と世界の関係性がおぼろげながら見えてくる。私たちは世界を、あくまでも近似値としてしか理解出来ない。僕らは自分の思っていることになるべく近い言葉を探りながら、すなわち近似値を目指して文章を書いてゆく。だから言語、記号によって本当の真実に到達することはありえない。だけど世界は、そういった回り道ばかりの迂遠な作業によって、はじめてその輪郭を浮かばせる。物事を粘り強い思考で考えつくした果てに、やっと自分の限界を知ることが可能となり、逆説的に世界を理解できる。そこでは明快な解答や単純な説明は望むべくもない。哲学に代表される難解な書物とは、好き好んで難解にしているわけではない。世界の複雑さを文章でなぞるとき、必然的に難解で複雑なものにならざるを得ない。そういった隠喩と回り道の思考を駆使することで、はじめて世界を記述することが可能なんだ。大事なのは、フロイトが「ピストルは男根の象徴」だとか、パスカルが「人間は考える葦である」だとか言ったことが重要ではなくて、なぜそう言えるのかと言う根本的な問いかけと、それを証明する思考の過程にある。数学の証明問題が、「これは二等辺三角形である」という答え自体はおまけで、重要なのは証明する過程にあるのと同じだ。答えだけを口にしても誰も信用しない。だからつねに不安を感じて物事を思考することで、なぜそういえるのかという問いかけを忘れず、ときに間違いながらも粘り強く世界と自己の関係性を証明してゆくことが一番重要なんだと思う」

「弱くて頼りない私は、それらの苦痛を一身に受け止め、克服しようと意思するだけの強さが欲しい。誰でもいい。私の手を引いて前を歩いてくれないか。それだけで強くなれる気がするから」

「わーい、人間なんかみんな死んでしまえー、いるだけ邪魔だー」


最近分裂度が増してます。ここの管理人は狂っているのではないだろうか。

というかすごい加筆っぷりだな。最初の5倍ぐらいはあるぞ。まあ今回は簡単なスケッチ程度に思ってください。みなさんが理解できなくても仕方がないっす。とりあえず、なんかいろいろと反発しあう感情の間でぐだぐだやってるなあ程度に思ってくれれば僕は満足です。
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2005年02月01日

ふらふらと定まらない思考探検

言語は自己であり、自己は言語である。僕らはすべて言語に依存する。意識の発生も肉体というハードウェアにソフトとしての言語をインストールしたこと可能となった。動物に意識がないのは、やはり言語の有無が大きな原因と考えられる。チンパンジーと人間のDNAはほんの数パーセントの差しか存在しないはずなのに、人間とチンパンジーでは大きく違う。人間は言語の使用によって積み重ねた知識を子孫に口伝できる。言語として知識を後世に伝えることで、前世代の人間が考えたことをあとの人間はそのまま受け取ることができる。その繰り返しによって人間は知識を発展させてきた。チンパンジーは言語を持っていないので、知識を蓄えることが出来ずに、ただ身体性の自然な発露によって動作が決定される。つまり食べたいからものを食べる。人間にとっても身体性は重要だが、いまここではおいておこう。人間は言語を作ったことで、人間足りえたのである。周知の通り人間は言語を効率よく構造化することで英語や中国語など他国の言葉を習得できる。といことは、人間とは構造化された言語を取り込むことではいじめて発生しえたのであり、また人間はある程度まで構造化が可能な生き物なのかもしれない。しかし言語の限界は言語によって到達しえいないから、人間の構造化も言語の限界と一緒である。すなわち人間には動物的な欲求を言語で構造化することはできず、それは身体性に還元される(現代はある程度まで構造化されてるような気がするけど限界はある)そこではけして構造化できないし、されない部分があって、構造化可能なのは言語の射程が届く範囲においてである。射程が届く範囲では言語は有用に機能するが、その範囲を越えた場合論理的な整合性をつけることがなきなくなる。そういった言語を超越した部分を表現するためにはただ暗喩によってのみ可能ではないだろうか。証明不可能だが、しかしそれはあるのだと存在をほのめかす地点で間接的に証明可能なのである。しかしそのような暗喩にも限界はやはりある。言語を言語として使用する限り、暗喩の地点では論理性によって正否を判別できない。そうした判断が行われるとしたら、それは言語の側でなく、身体性から発生する実感に委ねられる。言語の限界を超えた地点では、言語を使用することで体に理解させなければならないのだ。あるいは想像的な理解と呼ぶほうが正しいのか。実感は身体性と想像によってもたらされる。

ところで実感は、身体性と想像のどちらに属するのだろうか。物語に代表されるように想像的なものはリアルである。また身体から発生するもの、たとえば痛みや性欲もまたリアルなものである。想像的に満たされるリアルは何処に源泉を持つのだろう。たとえばセカチュウに代表される泣ける小説は泣くという肉体的な快楽と不可分に結びついている。セカチュウを見に行く人は内容を良し悪しではなく、泣くためにだけに映画を見に行く人もいるのだろうが、もしセカチュウをみてなけなかった場合、映画に対して文句を言うに違いない。つまり自分の身体性に影響を及ぼさなかった物語に価値を認めないということだ。何も考えずに観れるようなアクション映画を見に行ったのに、映画は変な思想的なリアリズムに拘り、自分の求めるストーリーと齟齬を起こした場合、映画自体を否定するにちがいない。つまり人は作品の良し悪し以前に、自分の好き嫌いでものごとを判断する。確かにこれは素晴らしい作品だけど、僕は生理的に認めることができないと人がいうとき、それは身体性から発生する実感において判断されている。だから実感は身体性に作用して初めて可能となるものである。痛いという実感と、面白いという実感は本質的には身体性に還元される。人間は言語と肉体と不可分に結びついている。肉体は言語と人間に結びつき、言語は肉体と結びつき、そういった関係で人間は言語と肉体に結びついている。肉体は言語に先行して存在し、世界は肉体に先行して存在する。世界があり、肉体があり、言語があり、私がいるのである。私が思考することは、肉体と言語と世界をない交ぜにした混在の状態から発生している。思考は肉体から発生し、言語によってその形を与えられる。ふつうは書かれていない思考は存在しないものと見なされる、たとえば頭の中の思考は観念に過ぎず、物質となった言語・発生した言語だけが存在するものとみなされるように。しかしこれ明らかに間違っている。頭の中の思考があって、つまり肉体の感覚から発生したもやもやが言語を使用する原因である。肉体という証明する必要もないほどあたりまえな存在がすでにある。頭の中の思考とは肉体が感じたものであり、それは明らかに存在するのだ。言語化された思念のみが存在するという言説そのものが論理的な思考の誤謬である。肉体が感じたことは証明できないが、それは証明する必要がないほど当たり前のことである。自分が存在すること知れ。私とはなにか? 私は存在する/されるものである。

(課題、次回へと向けて)
日常をボーと過ごすことは到底人にリアルを感じさせないが、そういったリアルでないもののリアルさを知るべきなんだと思う。
posted by doolittle at 02:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考の坩堝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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