2004年12月19日

親友交歓

『親友交歓(太宰治)』を取り上げる。僕にとって太宰の小説はその多くが未読なので断言できないないが、『親友交歓』はこの人が書いた小説の中では珍しいタイプ作品だと思う。
 
 親友交歓という作品はいわゆる意外な結末で迎えて終わり、そこには太宰本人を批判する形式を、つまり自己批判の構造を備えている。僕が知る限り、基本的に太宰は自己を批判するより婉曲的に他人を批判することで自分を肯定する人だ。
 
 人が判らない。すぐに汚い言葉遣いでひとを罵倒する。何かに対して怒るときの人間は、顔を醜悪に歪ませ、牛よりよりよっぽど下等で恐ろしい。人と人の間には絶望的な断絶が存在しており、相互理解など不可能だ。人は人を知ることは出来ない。とか人を評するのはよく聞く話だ。

《人は人に影響を与えることも出来ず、また人からから影響を受けることも出来ない》

 他人を自分から遠く押しやることは、自分自身の足場を堅固に安定させることである。他人が醜いと言って外部に排斥することは、結局自分は美しい、自分はアイツと違うという言い訳によって成り立っている。他者の全否定は、自己の全肯定だ。自分の現状をそのまま肯定することは難しいが、他人を否定することは簡単だ。婉曲的な自己肯定とは、社会を、他人を、世界を否定することであり、その行為は容易であるがゆえに堪らなく魅力的だ。

 えらく誇張して表現したが、太宰の小説には多かれ少なかれこのような感情が存在すると思う。だからこそ人を信じることが出来ない僕らは、ネガティブな感情を持つこれらの作品に惹かれるのだろうし、これからも太宰の作品は読まれていくだろう。それとは反対にいつの時代も、太宰の作品は他者あるいは世界へと向かっておらず、甘えているだけだという批判も続いて言われていくのだと思う。
(注・いま自分の脳内だけにある世間を相手に論じている。実際の世間で太宰がどのように評価されているのか僕はわからない。ただ太宰の作品を読んで僕は肯定と否定が共存する感情を抱いた。その感情を自分で仮構した世間に擦り付けただけ。自己の不勉強と、そのような現状を安易に許し、しかもその状態で滔々と太宰を語る自分に対しての自戒)
 
 しかし僕が言わなくても太宰という人はすごく頭のいい人だ。当然だ。婉曲的な自己肯定を続けるほど太宰は腐っちゃいない。安全な場所に立つ自分に対して、批判をするのは至極当然だ。
 そしてたぶん、そこから生まれたのが『親友交歓』という作品なのだと思う。僕が文章の初めで『親友交歓』を自己批判の形式と評したのは、他人を否定する自己を批判するという構造を備えているからだ。

 祖筋を紹介するのも面倒だし、だいいちこの話はめっぽう面白いので青空文庫でぜひ読んで欲しい。太宰の筆の冴えを存分に堪能できる。皮肉と諧謔に満ちていて読後には思わずニヤリ。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2271.html

 きちんと読了したならば、もう一度初めから読み直すことを勧める。きっと意外な結末で思わず戸惑った人が多いことだろう。その場合、今度は友人の視点で物語を読み進めるべきだ。少しは意味がわかってくるはず。そして二度読み終わったなら、ここから先の文章を読み進めて欲しい。

ふむん、なるほど、そんな話だったな(いま再読し終えたので感嘆の声を挙げている)。

 唐突にふらりとやって来た「友人」は、同窓会の金を催促し、貴重なウイスキー飲んで私の妻に絡み、家の中でさんざん暴れて最後に囁く。威張るな、と。読んだ人ならわかるが、威張っているのは明らかに友人の方である。一体こいつは何を言ってやがるのか? などと思って戸惑った人もいれば、思わず笑ってしまった人もいるだろう。全く一つもいいところの無かった友人は、私に親友強姦などと思わせるぐらいに不遜な態度を取る。そして一方的に私はこの友人の行動に振り回されて困惑する。この構図だけを見れば明らかに私は被害者であり、友人は加害者である。ではなぜ友人は私に対して「威張るな」と言ったのだろうか。それを理解するためにはまず私の視点から友人を見るのではなく、友人の視点から私を見る必要がある。
 
 《私は、ふと、木村重成(しげなり)と茶坊主の話を思い出した。それからまた神崎(かんざき)与五郎と馬子の話も思い出した。韓信(かんしん)の股(また)くぐりさえ思い出した。元来、私は、木村氏でも神崎氏でも、また韓信の場合にしても、その忍耐心に対して感心するよりは、あのひとたちが、それぞれの無頼漢に対して抱いていた無言の底知れぬ軽蔑(けいべつ)感を考えて、かえってイヤミなキザなものしか感じる事が出来なかったのである。よく居酒屋の口論などで、ひとりが悲憤してたけり立っているのに、ひとりは余裕ありげに、にやにやして、あたりの人に、「こまった酒乱さ」と言わぬばかりの色目をつかい、そうして、その激昂(げっこう)の相手に対し、「いや、わるかったよ、あやまるよ、お辞儀をします」など言ってるのを見かけることがあるけれども、あれは、まことにイヤミなものである。卑怯(ひきょう)だと思う。あんな態度に出られたら、悲憤の男はさらに物狂おしくあばれ廻らざるを得ないだろうと思われる。木村氏や神崎氏、または韓信などは、さすがにそんな観衆に対していやらしい色眼をつかい、「わるかったよ、あやまるよ」の露骨なスタンドプレイを演ずる事なく、堂々と、それこそ誠意おもてにあらわれる態(てい)の詫(わ)び方をしたに違いないが、しかし、それにしても、之等の美談は、私のモラルと反撥する。私は、そこに忍耐心というものは感ぜられない。忍耐とは、そんな一時的な、ドラマチックなものでは無いような気がする。アトラスの忍耐、プロメテの忍苦、そのようなかなり永続的な姿であらわされる徳のように思われる。しかも前記三氏の場合、その三偉人はおのおの、その時、奇妙に高い優越感を抱いていたらしい節(ふし)がほの見えて、あれでは茶坊主でも、馬子でも、ぶん殴りたくなるのも、もっともだと、かえってそれらの無頼漢に同情の心をさえ寄せていたのである。殊に神崎氏の馬子など、念入りに詫び証文まで取ってみたが、いっこうに浮かぬ気持で、それから四、五日いよいよ荒(すさ)んでやけ酒をくらったであろうと思われる。》

 親友交歓の一節であるが、つまりはこの長い引用のとおりである。初めの私は、軽薄な態度をとる木村重成を軽蔑して、むしろ茶坊主に対して同情的である。無頼漢たちが偉人たちを困らせてるというが、その原因は偉人たちが他人を上から見下すからである。その不遜な態度を見た無頼漢たちは、怒って暴れまわることしか出来なくなる。悪いのは偉人たちの卑劣な態度であって、無頼漢たちの心が荒むのは当然だと。しかし私は暴れまわる友人を前にしたとき、軽蔑する偉人たちと同じ態度をとる。以前の無頼漢たちへと共感はどこ吹く風で、手のひらを返したように考え方を変える。むしろ偉人たちに共感して、この場をうまくやり過ごそうと苦心する。

 読者も思わず、あの無礼な友人を前にしたら偉人たちと同じように行動するのが当然であると同情的になり、私に対して感情移入をする。なんて不遜なやつだ、けしからん。突然政治の話をしたと思ったら、恩を押し付けようだけか。失笑だ。いや、ここまでくるともう善悪の基準を越えて賞賛したくなるし、まったく天晴れな奴だ。などと徐々に私も読者も思うのだ。
 
 しかしここで友人にしてみれば、私は軽薄な態度をとる卑劣な人物に他ならない。無頼漢である友人は、かつて私が同情的だった茶坊主や馬子の立場に置かれている。茶坊主や馬子は偉人たちのイヤミな言動に耐え切れず暴れまわったのだ、と私は言っていた。そのとおり、友人に全く同じことが当てはまるのである。実はさんざん軽蔑した偉人を私は演じ、怒り狂う無頼漢を友人が演じたのだ。私と友人は表裏一体の存在だ。私はかつて無頼漢に同情を抱き、偉人たちを軽蔑していたが、友人が暴れると卑怯でも何でも構わないから軽薄な社交家の役割を必死に演じていた。友人は無頼漢であるが、私の妻が酒の酌にやってくると社交家にも変貌する。二人は立場や状況によって両方の役柄を演じたのである。一方は社交家を、一方は無頼漢を演じたが、二人の内面は同じように孤独を感じていた。
 
 無頼漢である友人の怒りは、私のイヤミな言動に向けられたものだ。最後に言った「威張るな」は、軽薄な偉人たる私への憤りを口にしたのである。私が被害者で友人が加害者という図式はそっくり反転し、友人が被害者で私が加害者という構図に変わる。「威張るな」は、実は被害者である友人が加害者である私へと向けて送った言葉なのだ。

 私は、偉人たちと同じように行動し、卑怯であろうとなんであろう自分の正当性をばかりを認めていた。他者の立場に対する想像力の欠如がある。最後の「威張るな」はいままでの私の行動の欺瞞性を暴き立てるものだ。

 僕らはすぐに相手を加害者に仕立てて、被害者ぶるとうするし、その誘惑にはよく負けてしまう。しかもあくまでも無意識に相手を仮想敵に見立てることが多い。そして自分が正義だと信じ込む。そこには意図せずに相手を否定することで、自分を肯定するプロセスがあるのだ。
 
 例えば、世間ではオタクに対して現実の女性に相手にされないから虚構に逃げ込むというレッテルを貼り付ける。オタクはモラトリアムに浸るだけで、社会的ではなないという。ある意味で真実を衝いている一面もあるとはいえなくもない。しかし、ここで問題なのは自分は正しいと思う無意識のプロセスだ。世間はオタクの一面だけを捉えて見下す。自分たちが所属する世間というものがオタクと違って正常に機能してると信じるのだ。また反対に、いまや日本のアニメは世界的な水準に至り、誇るべき日本の文化だと僕らも一面的に世間を否定する。どちらの主張も偏見に満ちているが、両方ともある意味で真実を衝いている。(ただ一般的に批判されることが多いオタクの方が、現実と虚構という対立を絶えず考えさせられる。ゆえに世間は現実という名の虚構に胡坐をかいて動こうとしないが、オタクは批判される側に属するその境目を真剣に考える。批判は自己を発展させるのもまた事実)
 
 無意識に自分を被害者に仕立てて、他人を加害者にするプロセス。そのような事態に容易に陥る僕らに対して『親友交歓』の物語は戒めと批判が込められている。それが「威張るな」という一言に凝縮されている。「威張るな」の言葉を前では他人を否定して自己肯定することは不可能である。なぜなら自分が加害者だと気づかす言葉だからだ。被害者を装うことで自分を肯定できたのに、実は自分が加害者だと気づかされたあとでは、安易な自己肯定は無効化される。

 「威張るな」という言葉でいまの僕は世界との関係を少なからず学んだ。被害者へと成ろうとする甘い誘惑は付きまとうし、つねにそれを退けられるとはとうぜん限らないのだけど、絶えずそのセリフを留意して物事を考えようと努めている。少なくともそのつもりだ。文章を書くという行為は自己の主張ばかりを肯定し、他への想像力が欠如する。だからその他もろもろの戒めとして自分に対して一言書いておこう。

 「威張るな!」

 叱咤激励、誹謗中傷、悪口雑言、三拝九拝、洛陽紙価、批判批評どれでも絶賛受付中。シカトも一つの反応として見られなくもないので問題ないでしょう。ただスパムメールは簡便な。

追記・『親友交歓に対しての追記と矛盾する無分化思考』と併読を勧める。てかこの文章をすげーつまらないな。
posted by doolittle at 04:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 本など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あまりに的外れな指摘であり、最後まで読みませんでした。この作品は太宰にはよくあるパターンですし、太宰は他人を痛烈に批判して自己肯定をする人ではありません。
Posted by ななし at 2016年11月14日 10:01
確かに太宰の小説では人間のエゴや醜さを主人公の自虐と言う形を通して暴くという形式をとっているけれども、それを「他人を全否定して自分を全肯定する」というのはあまりに深読み、誇張しすぎのような気がします。それって筆者が太宰作品を読んだ結果そういう価値観(他人を全否定して自分を全肯定する)を持つに至っただけなのでは?と思いました。
Posted by at 2017年03月14日 22:21
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