2005年01月29日

森博嗣を潰せ! ぷらす自分に対しての言い訳

理系と文系の区別はあほらしいと思っていたのだけど、最近「すべてがFになる」を読んだら、理系の人が犯しやす間違いを全て詰め込んだ小説だったことに唖然とし、やはり理系と文系の区別をこえて物事は考えなければならないと再確認した。自身のナルシシズムを喚起する手段として森博嗣は小説を書いている。もっと理系の人間に侮蔑的に響く表現をするならば、森博嗣は、世界や人間をすべて論理的な正しさによって証明できると考えるようなフシがある。これは理系独特の傲慢さだ。小説を自分のちんぽをこするためだけに使用するような人間を許すな。小説は肉体と言語と世界から現われなければならない。けして私のためのだけの小説であってはならない。森博嗣をぶっ潰せ! 少なくとも現在のような森博嗣が世間で跋扈する状態にカウンターを当てておかないといろいろと不味いんじゃないかと思って、僕は言ってるんだ。別に森の小説をを楽しむことは人それぞれでいいと思うけど、しかしその楽しさに留まることで満足してはならない。と僕は「あえて」言うんだ。

想像的なものは身体性を無理やりに機能させる大きな影響力を持っている。テキストは私の意識を支配し、体に影響を及ぼしリアルだとに実感させる。物語が自分の思想と反発するはずのこと主張しても、読み手は感動することが可能だ。人殺しは良くないと思っていても、犯人には人殺しをしなければならない事情があったと物語として説明されれば、人々は容易に感情移入し、心を動かされる。自分の思想と物語の思想が矛盾することなく両立する。それはなぜか。思想とは私が求めた限りにおいて有効性がある、つまり自分にとってその思想が役に立つ、肌に合うといった私的な身体性において肯定される。恋と性と対立ではどちらの主張が自分にとって有効性があるかという判断から選ぶことは、どちらがじぶんにとって気持ちよいものか身体性に基づく。だから物語によって支配してやれば、簡単により気持ちよい思想へと転ぶことになる。物語で社会的なものを貶めれば、相対的に恋の重要性があがって恋は素晴らしいものとなる。反対に恋は身の破滅を招くものと描けば、性こそが唯一絶対的な快楽であると認めることができる。物語とは、説話的な巧ささえ書き手が持っていればどんなに間違った主張でも無理やり納得させる可能性がある。人によっては主張を間違っていることを見抜けることもあるだろうが、たいていの人は巧みな術中にはまってしまう。だから、ぼくは「楽しければ良い。面白ければなんでもいいじゃん」といった安易な肯定を否定しなければならない。

物語の魔力に簡単に嵌ってはいけない。大衆をイデオロギー的に先導するのはいつだって物語の効用である。歴史的に見れば、共産主義という神話によって自己を絶対化して赤軍などの一連の騒動を起こしたり、オウムではサブカルチャー的な想像力によって作られた観念(ハルマゲドンとそこからの救済など)によって人々をサリン事件で殺したのである。物語は容易に人を支配し、快楽へと導く。物語に支配された人間が行き着く果ては、すでに歴史が証明したとおりである。だから僕は「楽しければなんでもいいじゃん」という発言を絶対に認められないし、「脳内麻薬だけが分泌される物語」にはつねに注意して観察するべきだと思っている。せめてそういった物語を楽しむときは、肯定を否定して肯定するといういったプロセスを脳内で繰り広げる必要がある。何段階にもクッションをおいてはじめて肯定するべきなのである。一段階目で肯定するようなやからにはちょっと待ってくれよ、いいたくなるわけだ。

個人的にはクロスチャンネルとか家族計画とかがこれに当たる。これらの作品を昔の僕は一段階目で全肯定したという過去を持っているので、その過去に対してそいつは違うだろうと自分で異議申し立てをしたわけだ。その結果が現在のクロスチャンネル批判に当たるのである、つまりいまレビューとして掲載したクロスチャンネルの感想は過去の僕が抱いたクロスチャンネルの感想に対しての批判であったわけだ。作品自体はではなくて、自分の過去を清算するうえでの批判だったのである。だからいま僕からすれば、純粋に物語に耽溺する人をみると、てめえらラクしすぎだと思ってムカつくわけだよ。「楽しければ何でもよい」みたいな楽観的な意見を目にするとあまりの単純さにぶちきれそうになる。まあ現代とはそういう時代と諦めるのもありだし、時代的な正しさはむしろそういったものにあるのかもしれないが、しかしその事態に何発かカウンターを当てないと僕の気がすまない。たとえば江戸時代、官軍となった薩長は、時代の流れも味方につけて、幕府を転覆させて近代の祖となる明治維新を作り上げたわけだが、しかしそういった時代の流れや正しさなどを簡単に認めることせずに、最後まで反発した人間がいたことも忘れてはなるまい。つまり官軍と賊軍の両方の視点でもってそれぞれの功績を評価するべきなのだ。単純にどちらが良くて悪い問題ではない。あくまでもいくつも視野で事態を眺めた上で肯定か否定かを決めるべきだ。きみたちが薩長と新撰組のどちらに肩入れるかは君たちの判断で決めればよいが、一方に絶対的な基準をおいて信じてはいけない。その状態では容易に物語に支配されて、オウムの二の舞になりかねない。オウムとはまではいかなくても、「楽しければそれで良い」という態度は、たとえばエロゲーを例あげるならばではその発展を阻害し、やがて消滅させるだろう。否定という要素を取っ払ったところに発展はありえない。最近、メーカーとユーザーの関係は親密すぎて少しやばいと思う。メーカーとユーザーが一緒になって「祭りだひゃっほーい」という空気を作り出してることを無自覚に肯定しすぎでしょう。そういった、空気をどこのメーカーも持っているし、ユーザーもそれに喜んで乗ってくる。その幸せな関係はエロゲーの発展を妨げるであろう。だから僕はこういう。くたばれタイプムーン! フェイトファンディスクとか出している場合か! アージュとかちよれん関係! ユーザーを取り込むんじゃんねえ! その他もろもろのメーカーもみなくたばってしまえ。がるる。てかてめらもメーカーを甘やかすんじゃねえよ。メーカーを批判せよ、同時に自己批判せよ。と僕は「あえて」いってるんだ。てめえ判れよ。まあ判んないと思うけど。僕も昔は判らなかったし。虚構ではなく現実に踏みとどまることの重要性なんて、昔の僕は理解の対象外だったし。楽しくて何が悪い? って言う人間の一人だったし。そこらへんは判る人は判るし、判らない人はそのうち判るようになるし、また判らない人は一生かけても判らないんだよ。そんな感じ。どっちが良い悪いではなくてね。いや実際は悪いといいたいだけどな。
posted by doolittle at 02:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 思考の坩堝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
‘Fになる‘がアニメになりましたね。

で、率直な感想ですが「何とも言えない違和感を持ちました」。
doolさんと同じような意見です。

ただ、一つ違うところが…それは、「どのような意見を持つかは自由。森さんが森さんなりの思想を持つのも自由だし、それに簡単に流されるならそれでも構わない。私のように違和感を持つのも構わない。ただ、まあ…それが人であって…自分から大変な結果を選択する愚かさなんだろうな。」と感じたことです。

確かに誰かが言葉にする必要はあると思いますが、それを押し付けるのもある意味森さんが行っていることと同じなのでは?と思います。

そして、結果を受け入れるのもまた人として生まれてきた私の役割なのかなと思います。



doolさんがお描きになったように、

・感情に支配されることはとても危険だと思います。ただ、感情は大切なものであることも事実です。

・また、理論にとらわれることも大変危険だと思います。しかし、理論もまた大切なものであることは事実です。



感情に流され、子供のような愚かさを犯さないよう、お互いに自分自身をよく見直すようにしましょう。
Posted by 通りすがり at 2015年12月05日 03:56
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