2005年02月07日

Femme Fatale

わがファム・ファタール

愛してます。
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2005年02月06日

なぜかこどちゃを見てるんだけど

いまさらアニメでは絵コンテも重要だと気づいたぼくはアホですか。やっぱ大地丙太郎が絵コンテを担当した話は段違いに出来が良い。昔は監督と脚本家の名前にしか目を向けてなかった。むむ、なってこったい。まあ、ぼくはアニメをあんまり見ない人だし仕方ないよね(言い訳)。

あ、やっぱこどちゃはさいこーのアニメの一つですな。よく出来た人間ドラマとしても一級品です。特に十九話目なんて素晴らしい。頭悪い感想でごめん。


話は飛ぶけど、幾原邦彦はもうアニメの仕事しないんか。ぼくこの人好きっすよ。アニメ自体は悪趣味で病的でマニアックなんだけど、それを意識的に解体しようとする知的な批評性が良いと思う。ウテナも見直すかな。
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2005年02月03日

紙屋研究所さんへ

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tosiue-no-hito.html

ここへの返答ね。

僕の透谷解釈は不当に歪められおり、そこに一切の弁明の余地はありません。あと「近代的自我の発生についての箇所」はほんきで忘れてください。思いつきで書いたんですよ。これらの不用意な発言については深くお詫びを申し上げます。同時に今後、そのような適当な発言を慎むので、どうか僕を見捨てないでやってくださいまし(みなさま)。で、だから今回の返答は透谷に関しては一切触れず、ただ自分自身の純愛と獣欲についての持論を述べるにとどめます。つまり細かい箇所を指摘してゆくと議論は間違いなく平行線になると思うので、そこら辺はばっさり切り捨て、僕が思っていることを挙げ連ねてゆくってことです。僕の文章力では完璧に説明することはできないと初めから諦めているので、この文章をどう解釈するかはみなさまの判断にお任せします。

僕は恋愛によってセックスを押しつぶしてやろうなんて毛ほど考えていないし、「純愛と欲望がそれぞれもっている豊かさや複雑さをすっぱりと捨象」するつもりもない。まあ以前の文章では恋愛の観念でセックスを支配するというふうに取られるもの当然だったと思う。だからここで訂正する。恋人たちの間では特別意識しなくとも純愛と獣欲はうまく統合されていると、僕は思っている。恋人たちは、普通に日常の延長としてセックスしたくなったらセックスして、好きだと思ったら好きだーとか甘えたりと、そういう自然な関係の中で、獣欲を解消し、純愛を楽しんだりしている。特に男の方は、恋愛のためにセックスするのではなく、単純にやりたいからセックスをする場合も多い(『河よりも長くゆるやかに』の主人公は明らかにそうだよね)。そこでは基本的では獣欲がどろどろや純愛はきらきらという観念には支配されいない。獣欲が汚いも純愛は素晴らしいも、ともに社会的な観念の一つだ。普通、恋人たちは、そういった社会的な差異の体系から逃れている。他の誰かとの比較を超えて、絶対化した相手だけを゛恋人と呼ぶのだ(肉壷としての恋人を求める人もいるけどさ、それは恋人じゃなくて物だ)。だからその地点では、恋人たちは獣欲や純愛のどちらかを比較することなく、等価として恋愛を楽しみ、自然に獣欲を発散する。獣欲(現実)と純愛(観念)は、どろどろと渾然一体なのではなくて、凹と凸みたいにきれいに接合されるものだと僕は考えている(僕と紙屋研究所さんとではこの箇所の考え方というか表現の仕方が一番違ってるんだと思う。たぶん僕は、純愛を伴うか否かの以前に、肉欲自体を汚いものだと考えていない)。セックスも純愛もともに現実の中で自然と統合される。つまり「純愛とセックスは本質的には分裂」しないと僕は考えている。

もっと根本的なことをいうと、恋人たちは、ただ純粋にこの人に近づきいたいという身体性から生まれる想いによって恋愛やセックスをしているのだと思う。身体性から生まれる想いについて説明すると、人間は、言葉を持たない猿だった頃から、群れを成して生活をしていた。だから人間になってもその名残として肉体自体が他人を求めずにいられない。猿が群れを理屈以前に作るように、人間も獣欲とか純愛とか以前に人間を求める生き物なんだと思う。だから乱暴だろうが、セックスも恋愛も本質的には同じものだと思っている。つまり「私はこの人に近づきたい」という人間になる前から持っていた当然の想いだ。人間の肉体から湧き上がる自然な感情だ。恋愛やセックスなどは、人間が当然求める行為としてそこにすべて還元される。恋愛やセックスは恋人たちにとって「この人に近づきたい」という感情を表わすための一つのヴァリエーションに過ぎない。

肉体だけでは空しいし、空想だけでも苦しい。普段の僕らは首から上のみを使って、肉体を蔑ろにすることが多い。だから二つの分裂したものではなく、うまく統合することで、肉体によって思考し、頭によって感じたいんだ。現実の豊かさも、観念への憧れもともに組み合わせたたうえで生きてゆきたい。その点、(一部の)恋人たちは、セックスと恋愛をうまく統合して、思い思われ、感じ感じられる理想の関係にあるのだと、少なくとも僕はそう思っている。

とまあ僕自身も紙屋研究所さんの意見にだいたい同意してますね。ただ互いに獣欲と純愛との本質の捉え方が異なっている以外。もともと僕自身も恋愛とセックスをともに尊重する文章を書こうと思ったんだけど、いろいろと筆が滑ってしまったのですよ。あと僕の文章を読んだ人はところどころ矛盾した箇所があると思われるかもしれませんが、個人的にはそれは矛盾ではありません。いや宣言されても困るだろうけどさ。まあただの言い訳ですけどね。

てかご指摘ありがとうございました。適当に書き散らかして放置していたので、紙屋研究所さんの批判は身に沁みるものがありました。日々精進したいと思います。
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2005年02月02日

敵と共生することの難しさ

「不愉快な隣人が登場して、あなたとしてはたいへん不愉快である。しかしこの不愉快な隣人を排除してしまったらあなたは人間ではない。敵はあなたの隣にいる。それは弱い敵である。弱い敵はあなたの隣人であって、あなたはその人を迫害したり排除したり、その人の権利を奪ったりすることができる。けれどもそれはしてはいけない。あなた隣人にその人がいることによって、あなた自身の快楽は阻害されている。あなた自身の自己実現は邪魔されている。あなた自身の快適な日々はさまざまなかたちで妨害されている。にもかかわらず、あなたの権利、生命、財産を脅かすその弱い敵と共存しなさい。その人があなた自身の快楽を減滅し、あなた自身の自己実現を妨害する権利を守りなさい。その人となんとか話し合ってください。なんとか折り合いをつけてください。かりにその人が邪悪な人であったとしても、それを根絶して、この世界に「最終的な解決」をもたらそうと考えてはいけません。その人をが嫌いならば嫌っても良いのです。その感情は理性でどうにかなる問題じゃない。ただその人を排除してはいけないのだ。」

「うぜえ。異常に説教くさいし。だいいちそれができたら苦労しないんだよ。人間は自分の行為に対して無自覚だ。何も考えずに平気で人を踏みにじるそいつらの愚鈍さが、僕は大嫌いだ。僕はそいつらと同じように思いを踏みにじり、想いを蹂躙してやりたい。圧倒的な力で弄んでやりたい。人格のすべてを完膚なきまでに否定し、ぶっ壊してやりたい。恐怖で顔を歪ませ、絶望に支配された人間をぶっ殺してやりたい。この世の全ての無知蒙昧で愚鈍な人間を排除し、排斥し、根絶し尽くしやりたい。これらの感情を誤魔化して生きてゆくのが大人になるってことならば、ぼくは大人になんかなりたいくない。」


「上記の文章を微修正した。ん、どっちが本当に俺の主張したいことかって? 両方に決まっているだろ。そうやって意見を一方的にまとめて単純化したがる人は、えてして想像力が欠如している。あんたの感情は、ある片方の意見を支持すれば簡単に折り合いのつくものなのか。違うだろう。人間の感情はそんなに単純ではないだろう。人はいつも世界が単純に出来ていると思いたがる。しかしその期待はいつも裏切られる。世界が複雑であることを認めるべきではないのか。言葉を使って自身の問題や深甚な事態を単純化したがるが、大抵その人の言うことは多かれ少なかれ間違っている。なぜみんな間違ったことを平気言うのか。それが楽だからだ。単純に考えると物事が明快に見渡せる。しかし事態を一義的に決定することは不可能なんだ。そのぐらい直感的に判るだろ。世界とは矛盾の総体のことなんだ。世界を一義的に決定することの難しさと不可能性をこそ知るべきだ。それなのに無理やり言葉で当てはめようとしても必ずどこかにほころびが生じる。だから僕らは二つの意見の間でどちらが本当か嘘かで絶えず悩むべきなんだ。二つの間の意見に身を引き裂かれて、苦しむべきなんだ。それらから可能な限り、真実の近似値を自分の手で導き出してみせろ。楽するんじゃないよ。必要なものは、問題を真正面から見つめてみせる決意と強さだ。そして真実は何処にもないという絶望を知れ」

「ん、いま僕も問題を単純化しただろうって? そだね。だから僕は絶えず不安を感じてる。自分の言った主張が次の瞬間、単純化されることを恐れている。自分が何か間違ったことを平気で口にしたのではないかと思って、不安に苛まれる。自分が変なことを書いているのではないかと心配でたまらないんだ。不安。しかしそれは自分の持論を絶えず検証し、他人の意見に照らし合わせようと強制するものだ。それは次の段階へと発展させる契機に繋がるものだ。それは問題を単純にしないための手段なんだ。自分の答えが間違ってると疑う人は楽観的に物事を決めることをしない(それが本当なら僕は少し楽観的に過ぎるな)。その人たちは粘り強く物事を思考して、つねに自分の言動の正否を確かめる。不安を感じることで、物事を単純に考えようとする自己欺瞞を一刀もとに切り伏せる。自分が楽することを許さない。だから僕らもそれを見習うべきだ。ダブルバインドに捉えられ、身動きできなくなるぐらいにきつく締められろ。汚わいにまみれて、人生にあがいて、水の中で溺れてみせろ。でもたまには肩の力をふっと抜くと案外簡単に水面に浮かび上がってこれるかもしれないぞ。そういうふうに押したり引いたりを繰り返して、自分にとっての真実の近似値を割り出そうと努力したとき、自分と世界の関係性がおぼろげながら見えてくる。私たちは世界を、あくまでも近似値としてしか理解出来ない。僕らは自分の思っていることになるべく近い言葉を探りながら、すなわち近似値を目指して文章を書いてゆく。だから言語、記号によって本当の真実に到達することはありえない。だけど世界は、そういった回り道ばかりの迂遠な作業によって、はじめてその輪郭を浮かばせる。物事を粘り強い思考で考えつくした果てに、やっと自分の限界を知ることが可能となり、逆説的に世界を理解できる。そこでは明快な解答や単純な説明は望むべくもない。哲学に代表される難解な書物とは、好き好んで難解にしているわけではない。世界の複雑さを文章でなぞるとき、必然的に難解で複雑なものにならざるを得ない。そういった隠喩と回り道の思考を駆使することで、はじめて世界を記述することが可能なんだ。大事なのは、フロイトが「ピストルは男根の象徴」だとか、パスカルが「人間は考える葦である」だとか言ったことが重要ではなくて、なぜそう言えるのかと言う根本的な問いかけと、それを証明する思考の過程にある。数学の証明問題が、「これは二等辺三角形である」という答え自体はおまけで、重要なのは証明する過程にあるのと同じだ。答えだけを口にしても誰も信用しない。だからつねに不安を感じて物事を思考することで、なぜそういえるのかという問いかけを忘れず、ときに間違いながらも粘り強く世界と自己の関係性を証明してゆくことが一番重要なんだと思う」

「弱くて頼りない私は、それらの苦痛を一身に受け止め、克服しようと意思するだけの強さが欲しい。誰でもいい。私の手を引いて前を歩いてくれないか。それだけで強くなれる気がするから」

「わーい、人間なんかみんな死んでしまえー、いるだけ邪魔だー」


最近分裂度が増してます。ここの管理人は狂っているのではないだろうか。

というかすごい加筆っぷりだな。最初の5倍ぐらいはあるぞ。まあ今回は簡単なスケッチ程度に思ってください。みなさんが理解できなくても仕方がないっす。とりあえず、なんかいろいろと反発しあう感情の間でぐだぐだやってるなあ程度に思ってくれれば僕は満足です。
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2005年02月01日

ふらふらと定まらない思考探検

言語は自己であり、自己は言語である。僕らはすべて言語に依存する。意識の発生も肉体というハードウェアにソフトとしての言語をインストールしたこと可能となった。動物に意識がないのは、やはり言語の有無が大きな原因と考えられる。チンパンジーと人間のDNAはほんの数パーセントの差しか存在しないはずなのに、人間とチンパンジーでは大きく違う。人間は言語の使用によって積み重ねた知識を子孫に口伝できる。言語として知識を後世に伝えることで、前世代の人間が考えたことをあとの人間はそのまま受け取ることができる。その繰り返しによって人間は知識を発展させてきた。チンパンジーは言語を持っていないので、知識を蓄えることが出来ずに、ただ身体性の自然な発露によって動作が決定される。つまり食べたいからものを食べる。人間にとっても身体性は重要だが、いまここではおいておこう。人間は言語を作ったことで、人間足りえたのである。周知の通り人間は言語を効率よく構造化することで英語や中国語など他国の言葉を習得できる。といことは、人間とは構造化された言語を取り込むことではいじめて発生しえたのであり、また人間はある程度まで構造化が可能な生き物なのかもしれない。しかし言語の限界は言語によって到達しえいないから、人間の構造化も言語の限界と一緒である。すなわち人間には動物的な欲求を言語で構造化することはできず、それは身体性に還元される(現代はある程度まで構造化されてるような気がするけど限界はある)そこではけして構造化できないし、されない部分があって、構造化可能なのは言語の射程が届く範囲においてである。射程が届く範囲では言語は有用に機能するが、その範囲を越えた場合論理的な整合性をつけることがなきなくなる。そういった言語を超越した部分を表現するためにはただ暗喩によってのみ可能ではないだろうか。証明不可能だが、しかしそれはあるのだと存在をほのめかす地点で間接的に証明可能なのである。しかしそのような暗喩にも限界はやはりある。言語を言語として使用する限り、暗喩の地点では論理性によって正否を判別できない。そうした判断が行われるとしたら、それは言語の側でなく、身体性から発生する実感に委ねられる。言語の限界を超えた地点では、言語を使用することで体に理解させなければならないのだ。あるいは想像的な理解と呼ぶほうが正しいのか。実感は身体性と想像によってもたらされる。

ところで実感は、身体性と想像のどちらに属するのだろうか。物語に代表されるように想像的なものはリアルである。また身体から発生するもの、たとえば痛みや性欲もまたリアルなものである。想像的に満たされるリアルは何処に源泉を持つのだろう。たとえばセカチュウに代表される泣ける小説は泣くという肉体的な快楽と不可分に結びついている。セカチュウを見に行く人は内容を良し悪しではなく、泣くためにだけに映画を見に行く人もいるのだろうが、もしセカチュウをみてなけなかった場合、映画に対して文句を言うに違いない。つまり自分の身体性に影響を及ぼさなかった物語に価値を認めないということだ。何も考えずに観れるようなアクション映画を見に行ったのに、映画は変な思想的なリアリズムに拘り、自分の求めるストーリーと齟齬を起こした場合、映画自体を否定するにちがいない。つまり人は作品の良し悪し以前に、自分の好き嫌いでものごとを判断する。確かにこれは素晴らしい作品だけど、僕は生理的に認めることができないと人がいうとき、それは身体性から発生する実感において判断されている。だから実感は身体性に作用して初めて可能となるものである。痛いという実感と、面白いという実感は本質的には身体性に還元される。人間は言語と肉体と不可分に結びついている。肉体は言語と人間に結びつき、言語は肉体と結びつき、そういった関係で人間は言語と肉体に結びついている。肉体は言語に先行して存在し、世界は肉体に先行して存在する。世界があり、肉体があり、言語があり、私がいるのである。私が思考することは、肉体と言語と世界をない交ぜにした混在の状態から発生している。思考は肉体から発生し、言語によってその形を与えられる。ふつうは書かれていない思考は存在しないものと見なされる、たとえば頭の中の思考は観念に過ぎず、物質となった言語・発生した言語だけが存在するものとみなされるように。しかしこれ明らかに間違っている。頭の中の思考があって、つまり肉体の感覚から発生したもやもやが言語を使用する原因である。肉体という証明する必要もないほどあたりまえな存在がすでにある。頭の中の思考とは肉体が感じたものであり、それは明らかに存在するのだ。言語化された思念のみが存在するという言説そのものが論理的な思考の誤謬である。肉体が感じたことは証明できないが、それは証明する必要がないほど当たり前のことである。自分が存在すること知れ。私とはなにか? 私は存在する/されるものである。

(課題、次回へと向けて)
日常をボーと過ごすことは到底人にリアルを感じさせないが、そういったリアルでないもののリアルさを知るべきなんだと思う。
posted by doolittle at 02:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考の坩堝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月30日

??

キャラメルBOX 処女はお姉さまに恋してる(おとめはぼくにこいしてる)初回版 中古売価9800円


(゜Д゜) ハア??

友人一同に告ぐ。新品を見つけたら確保よろしく。誰か、メディアパワーに行って確認してきてくれよ。
posted by doolittle at 13:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 対話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

適当なオタク小論

このネタまだひっぱります。

《透谷は「獣欲」と「精神的恋愛」を対立させ、前者の単独での価値を否定し、後者による前者の支配をもくろんだ。
 『恋風』に萌えるヲタは、この透谷の末裔である。
 「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ」と透谷が自己肯定的に言ったとき、それはまさにヲタのことを念頭において言ったかのようであるなあと思わないか。》

文脈から意味を汲み取るに、オタクは現実では達成されなかった願望を虚構にて反復する、という程度の解釈が可能である。しかしこれは明快にに間違っている。オタクは、よく言われるように現実と虚構を混同するのではなく、また現実の代わりとして虚構を消費するわけでもなく、現実と虚構を対立させないだけだ。現実のリアリティーと虚構のリアリティーはオタクの中では対立するものではない。つまり現実と虚構の優位性があるわけではなくて、現実も虚構もともに等価値である(微妙に虚構よりだけど)。現実で敗退したから仕方なく虚構に逃げ込むなんてことは今日のオタクとしては少数派である。セイバーは恋愛対象として、人間彼女は肉壷として共に価値があると思うのがオタクです。むしろオタクの価値基準においては現実より虚構の方が上であることも少なくない。虚構より現実の方に比重を置く人間は微妙にオタクではない、たとえば、恋人が出来てもエロゲーを捨てないのがオタクだ、恋人がいても隠れてエロゲーをやるのがオタクだ。「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ」なんてことはオタクにおいてありえない(大多数が)。確かに現実で恋人がいないからエロゲーをプレイする人もいるが、少なくとも僕の身の回りの友人には(KOHAやKAN)そんな理由でエロゲーをする人間はいない。ガチンコだぜ。やはりそういう意味で「オタクは透谷の末裔である」と定義することは難しいんじゃないかな。

と、勝手にKOHAとKANを自分の仲間に引き入れたわけだ。真性のオタクとして定義したわけだ。僕の認識に間違いがある場合は遠慮なく異議申し立てをしてください>お二方
少なくとも僕は、現実の境遇いっさい関係なく、純粋に二次元のキャラクターに恋慕を抱いたのが切っ掛けでギャルゲーとエロゲーをプレイしたわけですが。美少女ゲームの英才教育はだてじゃない。どうだ羨ましいだろ。え、別に羨ましくないって? 僕自身は、二次元彼女に価値を見出した自分を限りなく賞賛したいんだけど、人間ではなくキャラを愛すこと選択した自分を褒め称えたいんだけど、え、変ですかね。と「あえて」居直ってやる。
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2005年01月29日

森博嗣を潰せ! ぷらす自分に対しての言い訳

理系と文系の区別はあほらしいと思っていたのだけど、最近「すべてがFになる」を読んだら、理系の人が犯しやす間違いを全て詰め込んだ小説だったことに唖然とし、やはり理系と文系の区別をこえて物事は考えなければならないと再確認した。自身のナルシシズムを喚起する手段として森博嗣は小説を書いている。もっと理系の人間に侮蔑的に響く表現をするならば、森博嗣は、世界や人間をすべて論理的な正しさによって証明できると考えるようなフシがある。これは理系独特の傲慢さだ。小説を自分のちんぽをこするためだけに使用するような人間を許すな。小説は肉体と言語と世界から現われなければならない。けして私のためのだけの小説であってはならない。森博嗣をぶっ潰せ! 少なくとも現在のような森博嗣が世間で跋扈する状態にカウンターを当てておかないといろいろと不味いんじゃないかと思って、僕は言ってるんだ。別に森の小説をを楽しむことは人それぞれでいいと思うけど、しかしその楽しさに留まることで満足してはならない。と僕は「あえて」言うんだ。

想像的なものは身体性を無理やりに機能させる大きな影響力を持っている。テキストは私の意識を支配し、体に影響を及ぼしリアルだとに実感させる。物語が自分の思想と反発するはずのこと主張しても、読み手は感動することが可能だ。人殺しは良くないと思っていても、犯人には人殺しをしなければならない事情があったと物語として説明されれば、人々は容易に感情移入し、心を動かされる。自分の思想と物語の思想が矛盾することなく両立する。それはなぜか。思想とは私が求めた限りにおいて有効性がある、つまり自分にとってその思想が役に立つ、肌に合うといった私的な身体性において肯定される。恋と性と対立ではどちらの主張が自分にとって有効性があるかという判断から選ぶことは、どちらがじぶんにとって気持ちよいものか身体性に基づく。だから物語によって支配してやれば、簡単により気持ちよい思想へと転ぶことになる。物語で社会的なものを貶めれば、相対的に恋の重要性があがって恋は素晴らしいものとなる。反対に恋は身の破滅を招くものと描けば、性こそが唯一絶対的な快楽であると認めることができる。物語とは、説話的な巧ささえ書き手が持っていればどんなに間違った主張でも無理やり納得させる可能性がある。人によっては主張を間違っていることを見抜けることもあるだろうが、たいていの人は巧みな術中にはまってしまう。だから、ぼくは「楽しければ良い。面白ければなんでもいいじゃん」といった安易な肯定を否定しなければならない。

物語の魔力に簡単に嵌ってはいけない。大衆をイデオロギー的に先導するのはいつだって物語の効用である。歴史的に見れば、共産主義という神話によって自己を絶対化して赤軍などの一連の騒動を起こしたり、オウムではサブカルチャー的な想像力によって作られた観念(ハルマゲドンとそこからの救済など)によって人々をサリン事件で殺したのである。物語は容易に人を支配し、快楽へと導く。物語に支配された人間が行き着く果ては、すでに歴史が証明したとおりである。だから僕は「楽しければなんでもいいじゃん」という発言を絶対に認められないし、「脳内麻薬だけが分泌される物語」にはつねに注意して観察するべきだと思っている。せめてそういった物語を楽しむときは、肯定を否定して肯定するといういったプロセスを脳内で繰り広げる必要がある。何段階にもクッションをおいてはじめて肯定するべきなのである。一段階目で肯定するようなやからにはちょっと待ってくれよ、いいたくなるわけだ。

個人的にはクロスチャンネルとか家族計画とかがこれに当たる。これらの作品を昔の僕は一段階目で全肯定したという過去を持っているので、その過去に対してそいつは違うだろうと自分で異議申し立てをしたわけだ。その結果が現在のクロスチャンネル批判に当たるのである、つまりいまレビューとして掲載したクロスチャンネルの感想は過去の僕が抱いたクロスチャンネルの感想に対しての批判であったわけだ。作品自体はではなくて、自分の過去を清算するうえでの批判だったのである。だからいま僕からすれば、純粋に物語に耽溺する人をみると、てめえらラクしすぎだと思ってムカつくわけだよ。「楽しければ何でもよい」みたいな楽観的な意見を目にするとあまりの単純さにぶちきれそうになる。まあ現代とはそういう時代と諦めるのもありだし、時代的な正しさはむしろそういったものにあるのかもしれないが、しかしその事態に何発かカウンターを当てないと僕の気がすまない。たとえば江戸時代、官軍となった薩長は、時代の流れも味方につけて、幕府を転覆させて近代の祖となる明治維新を作り上げたわけだが、しかしそういった時代の流れや正しさなどを簡単に認めることせずに、最後まで反発した人間がいたことも忘れてはなるまい。つまり官軍と賊軍の両方の視点でもってそれぞれの功績を評価するべきなのだ。単純にどちらが良くて悪い問題ではない。あくまでもいくつも視野で事態を眺めた上で肯定か否定かを決めるべきだ。きみたちが薩長と新撰組のどちらに肩入れるかは君たちの判断で決めればよいが、一方に絶対的な基準をおいて信じてはいけない。その状態では容易に物語に支配されて、オウムの二の舞になりかねない。オウムとはまではいかなくても、「楽しければそれで良い」という態度は、たとえばエロゲーを例あげるならばではその発展を阻害し、やがて消滅させるだろう。否定という要素を取っ払ったところに発展はありえない。最近、メーカーとユーザーの関係は親密すぎて少しやばいと思う。メーカーとユーザーが一緒になって「祭りだひゃっほーい」という空気を作り出してることを無自覚に肯定しすぎでしょう。そういった、空気をどこのメーカーも持っているし、ユーザーもそれに喜んで乗ってくる。その幸せな関係はエロゲーの発展を妨げるであろう。だから僕はこういう。くたばれタイプムーン! フェイトファンディスクとか出している場合か! アージュとかちよれん関係! ユーザーを取り込むんじゃんねえ! その他もろもろのメーカーもみなくたばってしまえ。がるる。てかてめらもメーカーを甘やかすんじゃねえよ。メーカーを批判せよ、同時に自己批判せよ。と僕は「あえて」いってるんだ。てめえ判れよ。まあ判んないと思うけど。僕も昔は判らなかったし。虚構ではなく現実に踏みとどまることの重要性なんて、昔の僕は理解の対象外だったし。楽しくて何が悪い? って言う人間の一人だったし。そこらへんは判る人は判るし、判らない人はそのうち判るようになるし、また判らない人は一生かけても判らないんだよ。そんな感じ。どっちが良い悪いではなくてね。いや実際は悪いといいたいだけどな。
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2005年01月28日

お姉様

お姉さまから電話がかかってきた。

(僕)「はい、もしもし」

(姉)「近いうちに東京に行くので、あなたの家に泊まらせなさい」

(僕)「いやだ」

(姉)「あら。ほんとは嬉しいくせに。照れ隠し?」

(僕)「いえほんきでありえないんで勘弁してください、お願いします(懇願)」

(姉)「判ったわ。そこまで言うなら仕方ないわね」

(僕)「ウンそうしてくれると僕嬉しいデス」

(姉)「2月の10日にそっち行くからよろしくね」

(僕) 「何も判っちゃいねえよこのアマ!」

そんなこんなでぼくんちに泊まるらしいよお姉さまは。どうだ羨ましいだろ。はっはっは(涙目)。

いやいとしのお姉さまに会えるのは素直に喜ぶべきことなんだけど、でもねえ。ぶるぶる。


突発企画・今日の名言のコーナー

「姉は理想の母である」

姉は、弟を思いやって愛してくれるけど、母親のように一方的に愛を注ぐのではなく、たまに冷徹に突き放すよう他者性も備えている。母親は子供を取り込もうとするが、姉は弟を一個の他者として扱う。時に姉が冷たく思えるときがあるけど、それは過剰な愛を弟に求めないからだ。ある意味で理想の関係ではないだろうか。

まあ母親と姉の両方いる中で形成される関係性が僕にとって丁度いいような気がするけど。
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2005年01月27日

恋愛とは

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/koikaze.html

かとゆーから飛んだこれへの反論。てか本気でニュース系のサイトは少し記事の取捨選択を考慮した方がいいと思う。


明治時代の人々は江戸時代の価値観をそのまま持ち越したことで、肉欲の一面に傾倒した。肉欲だけでは恋愛はうまれず、貞操の観念が欠落しても生まれない。透谷は世俗的な快楽では到達し得ない内的な真実として恋愛を直観した。だから透谷は彼らに「春心」ではない恋愛の重要性や貞操の観念を説いた。現代の規制が緩くて無法地帯になっている成人漫画を読めば判るけどな、ただ性的欲求を満たすだけの即物的な描写だけで、恋愛なるものの至高性はどこにも見られない。透谷が人々に懸念したのはこういう事態のことだよ。規制がなければ人は目先の快楽に溺れることに終始する。そんなものは動物と変わらない。だから規制されて初めて恋愛とは可能になり、近代的な自我が発生したのだ。

社会的は規制によって肉欲を悪とする。社会的におおぴらにできなからこそ性的な行為は、恋人たちだけの秘め事となり、精神性を高める契機になりえるのである。性とはあなたのためだけにという特性を帯びることで恋愛へと繋がるのだ。禁止された性を恋人の前で解放することで恋愛はより強化される。社会的なものと対立する空間が、より二人の結びつきと精神性を保障する。つまり僕にとっての恋人が僕だけに淫らになるという幻想において、恋愛はより至上のものとなる。ここでは恋愛は肉欲を促し、肉欲は恋愛をより高みへと追いやるのだ。社会においてネガティブな性欲は、恋人たちの営みにおいて肯定されるのだ。性欲はけして後ろ向きな感情ではない。自身の内から生まれる欲望を否定することは欺瞞に他ならず、そのような欺瞞から真の恋愛はけして生まれはしない。

そうセックスはあくまでも恋人を愛するための手段であって目的ではない。セックスすることと、性的な交渉を伴わないことたとえばキスすることの間に本質的な差異はない。すなわちそれらの行為はあくまでも恋人に対する恋愛感情を高めるための手段なんだ。恋人を愛し、恋人に愛されるという無上の恍惚。そこにはセックスを汚いと思う感情などありはしない。セックスをして、手を繋い、抱き合い、キスをする、ただ一緒にいるだけで喜びとなる、恋愛とはそれら全てで味わうんだ。恋愛は世俗的な快楽で留まることを潔しとしない。身体性から発する純粋な肉体的な欲望を超越し(否定ではない)、そこから精神的なものへと向かってこその恋愛だ。恋愛の本質、それは恋人と一緒に永遠なるものを目指す無限の向上心だ。恋愛とは自らの精神を他者と共に高める作業に他ならない。動物は発情期によってセックスをするが、人間は愛情表現としてセックスをする。セックスをただの自分の快楽のためだけに行うことと、人を愛したいという感情の発露からのセックスとでは決定的な違いがある。むろん前者が江戸時代の人々であり、透谷は後者を主張した。すなわち自身の快楽ためではなくて、人を愛するこという精神性を重視したのである。だからこそ社会的に性を禁止する必要があり、同時に恋人たちは恋愛と性欲の社会的な対立を乗り越えて二つを統合することで、より多きな精神性へと向かうことが出来るのである。大げさなことを言っているが、要は近代的なセックスと恋愛は共にその人に近づきたい、その人を愛したい、という至極当然な人間らしい感情の現われであり、至高性への憧れなのである。恋愛の本質を、僕は至高性にみたり。

現代においては性的な禁止が弱くなったせいで(現代の中高生はすごいしねー)、恋愛そのものが効力を失いつつある。社会の禁止=二人の恋愛という構図が成り立たなくなった。
オタクたちはエロゲーに恋愛を求めた。最近では恋愛とエロの統合を重視し始めた。恋愛的でありながら同時にエロい。これは矛盾しない。なぜならエロは恋愛の精神を高めるものだから。悪いけど最近のオタクは、エロが恋愛感情を煽り立てる一要素であることを直感的に見抜いているよ、最近のエロゲーのニーズを読み取る限り。いまここで宣言するが、真の純愛とはエロくなければならないのだよ。

反対に現実自体は、江戸時代みたいというかエロ漫画みたいな様相を呈してきて、人によってはこの事態に堪えられんとですよ。人間を肉壷とでも割り切れば楽なんだけどね、そんなことを出来ない人は恋愛を求めた果てにエロゲーですがな。人間は肉壷と割り切った人も恋愛を欲してエロゲーですがな(まあ現代のエロゲーマーは多様化しており、エロ、恋愛、燃え、萌え、現代思想?をどれを選ぶもの人しだいといえるが、しかしそれらの裏側には全て至高性への憧憬がないだろうか)。恋愛を欲しない人だけが、今日の現実に適応できるんですよ。人はそれをDQNと呼ぶですけどね。人によっては現実で普通に恋愛している人もいるけど、まあ数少ないよね。江戸時代に逆行したような現在において、いかに透谷の主張が正しかったかを証明しておろう。恋愛はロマンチックイデオロギーなどではなくて、人間を人間足らしめる精神の営みである。松田道雄は、この真実に気づくことが出来ずに、透谷ほどの気高き魂を自分の理想の中に押し込める。それだけで大罪だ。むろんキミも同罪だ。芥川が「恋愛は性欲の詩的表現に過ぎない」みたいなことを言っていたけど、これもキミと同じく恋愛の本質を見失った人間の主張だね(芥川の作品はけっこう好きだけど)。精神的なものの中にのみに理想を見い出し果てに、現実に絶望したとキミは透谷を言及するが、それは全く転倒した意見と言わざるを得ない。透谷はつねに現実において恋愛を想定したのだ。だから透谷は人々に貞操についてを説いたのだし、そしてここにおいて「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ」の言葉は見られなければならない。恋愛とは現実と混同できるような単純な思慕ではなく、現実との差異において初めて至上なものとして達成される。むしろ現実との対立を糧にしてよりおおきな精神性とへと向かえるのである。

きみは、現実への妬み恨みから透谷は恋愛を志向したと言いたいみたいだが、これは現代の人間が勝手な価値観において透谷を不当に解釈したものと言わざるを得まい。キミの矮小で単純な恋愛観を持ってオタクを語るの勝手だが、透谷を貶めるな。透谷の恋愛は安易な精神的愛とは本質を異するのだから。

乱暴な要約だが、今日、DQNは肉欲のみで、オタクは精神性への欲求だけなので、両方が透谷の言説から外れた存在である。人はちんこ(肉欲)だけでも、ロマン(精神性)だけでも生きてゆけないよ。

オタクの末席を汚す一人ならばきみはえろげーの『とらあんぐるハート』をプレイして反省するべきじゃないかな。そこには恋愛がセックスの快感を高め、セックスが恋愛の精神性をより高みへと押し出す理想的な関係が描かれている。セックスとは恋愛の一過程である。それを実感したまえ。

と偉そうなことをいってますが、僕も都合よく記憶を改変した可能性があるので、原文にあたると透谷はそんなこと主張してないかもしれません。誰か詳しい人教えてください。というかすみません、自分の考えと透谷の考えを混同してます。自分の理想の中に透谷を押し込めました。大罪です。どこからが透谷の思想でどこまでがぼくの考えなのか区別がついてない自分。まあそういった論理的な甘さが僕の短所であり、長所でもある。

狂犬属性ばんざーい。人に噛み付くといい感じで書ける。噛み付かれた方いい迷惑だろうが、まあ僕にとって気に入らない主張なのだからしょうがない。運が悪いと思って諦めてもらおう。


追記
最近、悪しき恋愛主義の呪縛を逃れて新たな価値観を創設しなければならないなどという透谷の意見を反転させた主張をよく目にするが、それは新時代の発展ではなく、江戸時代への後退に他ならない。それは古くからある俗流の恋愛観を変奏した物言いである。原因と結果を取り違えちゃいけない。

セックスを否定するやからは信用ならないが、同じように恋愛を蔑ろにする人間も信用ならない。つまり身体性と精神性を切り離して主張する人間は根本的な誤謬を抱える。


最後に正直に言っておきますが、僕は透谷なんて読んだことはない。透谷をダシにして、遠まわしに自分語りをしたかっただけなんだよ。透谷をきっかけに他人に噛み付いて、どうにかして自分を語ってやろうとしか思ってない。だからここに書いてある透谷関連の文章は何処から本当でどこまでが嘘なのか自分自身でも判っていない。どこかで読んだ透谷の評言をもとにして(柄谷行人だったかな)偽造したものだ。つまり僕は自分の立ち位置を決めるために偽史を作成する必要があったんだ。きっと。

あといまのポストモダンと呼ばれる時代と明治時代との境遇が互いに似てませんか。誰かそこらへんの違いを教えてください。近代的な言説がそのまま現代に適用できるような気がしてならない。聞きかじりの知識だけで判断したに過ぎないのだが。僕自身の発言が近代的なものの変奏に過ぎないのでは? え、まじ。

自分のための思いつき。
現実と想像、肉体と精神の対立はエロゲーにおいてどのように統合されるべきか。エロゲーはその表現媒体の特性上、身体性を蔑ろにして精神的なものへと拘泥しやすい。どうするべきだろうか。あえて精神性に傾倒してみせるか。それともあえて精神性を放棄してみせることで、肉体へと向かわせるか。


つけたし、てか「恋愛とは」のまとめ
「愛、すなわち精神は美しいもので、肉欲は獣のようでけがらわしく汚らしい」や「ヲタクが純愛と欲望の分裂のまっただ中を生きているからである」などという対立そのものが真の恋愛の前では不当なもののである。確かにしばしば肉欲と恋愛はかみ合わないこともあるが、しかしそれらはつねに対立するわけでないのだ。むしろそういった肉欲と純愛の対立を超越した地点において恋愛は始まるし、超越しなければ始まらない。規制と純愛の対立は恋愛へと導くために必要であるが、恋愛対象として相手を絶対化した時点で、社会に、つまり純愛だとか肉欲だとかの社会的な差異に縛られるほうがおかしい。恋愛は卑俗な価値観を超越したところにある(エロゲーマーはこの地点にいるのだから当然自分の性欲と純愛は矛盾しない)。縛られているとしたらそれは恋愛と呼ぶに値しない。失恋して恋愛自体を貶める人間は多いが、それは恋愛の責任ではなく人間様の責任である。責任を恋愛に押し付けて、自分の責任を逃れようとするなど笑わせる話だ。恋愛、いや至高性は全てにおいて肯定し肯定しつくす全肯定だ。

注意・本文では、恋愛(至高性への憧れ)とエロティシズム(侵犯による一瞬の超越性。たとえばエロゲーで見たパンチラとプレステで見たパンチラとではエロさの度合いが違う。むろん後者の方が断然エロい。これが禁(規制)を犯すことで起こる一瞬の超越性)とエロさ(性的なもの)が混じって区別のつかない部分がある。てかそこら辺を組み合わせながら同時進行的に思考を探って文章を記述したので、かなり錯綜した論理展開になっている。だから読めることだけを読もう。これはこのブログの信条の一つです。
posted by doolittle at 08:39| Comment(19) | TrackBack(0) | 思考の坩堝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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