2005年01月27日

いままで自分で書いた文章を抜粋してまとめてみた

僕らはすぐに相手を加害者に仕立てて、被害者ぶるとうするし、その誘惑にはよく負けてしまう。しかもあくまでも無意識に相手を仮想敵に見立てることが多い。そして自分が正義だと信じ込む。そこには相手を否定することで自分を肯定する無意識のプロセスがあるのだ。




「倫理とは、己の内から湧き出すものだ。けして学んだり教えたり押し付けるものではない。ただ自己と他者の関係を自覚したときに、倫理は己のうちより自然と生み出ずる。それが倫理になる。自己と他者との関係性を見つめるんだ。そこからしか倫理は生まれない。」

「胡散臭いことを言っているとお思いでしょう。しかし、倫理とはすなわち自分のために行うことなのです。他人の為に倫理を行うのではなく、あくまでも自己の為に倫理を実践するものなのです。それが真の倫理だと私は確信しています。要は自己は一個の他者であります。自己たる他者をつねに考え続けることが倫理に向かうのです。その自己と他者が互いにどのような影響を与えるのかを考えましょう。腹が立ったら烈火のごとく怒りなさい。悲しくなったら声を上げて泣きなさい。ただ、それは自分のためにこそなされるべきなのです。他人がやったから自分もやったなどと、言い訳をしてはいけません。他人のために何かを為すなどと言ってはいけない。それは結局自分を蔑ろにし、或いは自身を傷つけるのですから。だからつねに自身のためにこそ行いなさい」




私たちは互いを理解しあうことはできません。だから何とかして理解しようと努力します。しかし普段の私たちはそのことを忘れて互いに理解しあっているという勝手な解釈の中で当然のようにコミュニケーションを行うのです。つまり私たちは本質的な真実から目をそらし、手前勝手な理解で満足しています。これが他者だけではなく、自分も蔑ろにしているという意味です。他者を勝手に理解することで妥協する。それは同時に相手が自分を勝手に理解することも無意識に容認しているのです。自分が相手をどのように理解するかなんて勝手だ、というときそれは自分もどうのように解釈するかなんて勝手だと自己を蔑ろにしているのです。だからこそ他者を蔑ろにできるのです。

前回の倫理についての文章では、「倫理とは、己の内から湧き出すものだ。けして学んだり教えたり押し付けるものではない。ただ自己と他者の関係を自覚したときに、倫理は己のうちより自然と生み出ずる」といったのです。倫理とは自己を大切にする感情なのです。それが他人を大切にすることに繋がるのです。僕は自己と他者を大切に扱う感情こそを倫理と呼びたいのです。倫理。それは自己と他者を思いやることが出来たときに、はじめて己の内から自然に湧き出るのです。




http://kiri.jblog.org/archives/001277.html

ふむふむ。界隈で有名な切込隊長の文章。んー、いまの僕にはぜんぜん心に響かないや。これは別に批判しているわけではありません。ただ事実として。

《よく分からん。無能だといわれたくない、それはよしとしよう、だがしかしいきなり能力を発揮できる人間は少ない、だから能力のあるなしにかかわらず何かを手がけてみる、仕組みを知るために継続してやってみる、認められるかどうかはともかく、自分なりに形にしてみる、という気持ちはないのだろうか。それが悪いといっているわけではない、ささやかな価値観をはぐくんでいて、それが社会のそれと違うというのは、いまに始まったことではない、誰もが経験していることだ。で、境遇や性格によっては、一人ではそのハードルを超えられない人が一定の割合でいるということだろう。

 しかしだ。しかしだよ。そういった自分一人で未来を切り拓く力が弱かったとしても、自分のために超えられないかわりに、誰かのために、もしくは何かのために力を尽くすということはできないものなのか。例えば、親のために、家族のために、自分と笑って語らってくれる友人のために、共通の趣味を持つ同好の士のために、好いた異性のために、欲しいもののために、組織のために、民族や国家のためにといった、目的を自分以外に持つやり方はしないものなんだろうか。

 嫌われたくない、裏切りたくないといった基本的な自己防衛については分かる。私だって、語りかけて拒否的な反応されたらどうしようとか日常的に思っている。それが厭だから、わざと忙しくしているというのもあるかもしれない。友達ができなくて、無視されるというのはつらいことだ。でもだな。何かを為すために、継続して何かを手がけていく、続けていくなかで見つけられるものは必ずあるのだと、そう思うことはできないのだろうか。》(切込隊長)

いやほんとこの人は頭のいい人だ。文章力もある。なにより多分この文章を読んだ人が感動で打ち震えるような良い文章だ。でもさ、これを真に受けない方がいいと思う。切込隊長が言っていることは結局は理想なんだ。たとえば、環境問題は悪いことだから改善しなければならない。これが理想だ。しかし、実際には環境問題はけして解決しない。解決したいと思う理想を持ってもそれはけして達成されないんだ。目的を自分以外の為に持てといわれても、それが現実に出来ないから苦しんでいるんじゃないのか。他人のために何かを行いと思っていても、それができないから苦しんでいるんじゃないのか。
 どんなに頑張っても、けして他人の為に達成はできない。ただ自分の中で達成したという満足を得るだけなんだ。満足や苦悩は一見全く違うもののように思えるけど、意外とその両者は近い位置にあるんじゃないかと思う。だからこそ、ぼくは、以前の文章(僕が書いた倫理関連の文章のこと)で、ただ自分のためにこそ行えといったんだ。結局達成できる理想など、自分の中のことでしかない。それを外に照らし合わせると、かみ合うこともあるし、裏切られることもある。その繰り返しが人生なんだ。理想は自分の中では達成可能だ。しかし、それを社会にまで敷衍することは失敗の連続になり、成功する可能性は限りなくゼロに近い。これに気づけなければ、いつまでたっても外に向かうことなど出来ない。ただ他人のために行え、友達を見つけろ、と言われても僕は困ってしまう。
 見つけたい、だけど見つからない。その繰り返しだ。これは自分でどうにかできる問題じゃない。ただ向こう側、そこがどこか判らないけど、どこか遠くから一方的に到来するモノがある。そのモノを僕らが能動的に手に入れようと頑張ってもどだい不可能なことだ。自分が望むものが向こう側から到来することを、待つだけなんだ。到来するものを待つ間に、僕らは到来するものを迎える準備をしなきゃならない。もしモノが到来しても、それに自分が気づかなければ意味がない。だから到来するものを迎える準備が必要なんだ。僕らが出来るのは、到来するものを迎える準備だけ。それが到来するかどうかは、ただ一方的に外部にゆだねられる。切込隊長の文章に覚えた違和感の正体は、外部にある、けして手に入らないものを「続けていけばいつかは手に入る」と主張しているからなのだと思う。僕らに出来ることは、何かを手に入れるために続けることじゃなくて、手に入るか判らない、一方的に外部に委ねられたものが到達するための準備だけなのに。つまりだ、環境問題をいくら解決しようと自分が頑張っても、それが実際に解決するかは、外部の問題だということ。個人で空き缶拾いを一生続けたって環境問題は解決し得ない。たしかに続けなければ、解決しない。努力したからといって必ず結果出るとは限らないが、努力しなければ結果は生まれない。だけど、続けたからといって解決する可能性は、自分ではなく、外部だけが持っているものだ。それに気づかずに、ただ続けろとはあんまりだ。
だから僕はこう主張する。
迎える準備をしろ、それから絶望的に到来不可能なものが到来するその瞬間を待つんだ。と。

つまり。絶望に縋るな、希望に甘えるな、ただ準備して待て、しかして契機は訪れん、と言っておりますです。まあそれが訪れるかどうかは運しだい。人生は負け続きのギャンブルだ。でももしかしたら一発大穴があたるかも?な精神でいこうぜ。「大穴は当たらないから大穴って言うんですよ」って栞が隣で言ってる。 



僕がいなくなっても世界は何一つ変らずに毎日の営みを続けるだろう。僕が世界に抵抗しようが、あるいは世界に服従しても、それはいずれ誰かによって達成されるに違いない。そして今日も変らずに世界は動き続ける。たぶん、それは間違いない。僕ら自身が、オリジナルとしての価値を失い、ただ代替可能なモノとして扱われている。おれは「代替可能なモノをやめるよ」と抵抗しても意味はない。社会的に従属する学生を辞めて、家に引きこもることで抵抗しても意味はない。学生はすぐに自身の代わりに補充されるし、自分はひきこもりという社会的価値を与えられる。代替物から、違う代替物へと移行しただけだ。逆に僕が積極的に社会に関与したとしても、社会は何一つ様相を変わることなく、自動的に営みを続けるだろう。肯定的な行動であろうと、否定的な行動であろうと、世界から見れば僕らの行いなんて大差ないし、僕らも関与できない。現代とは自らの意思が無効化される時代だ。そして僕らはその時代をいき続けなければならない。
 


煩悶、苦悩、痛み、悲しみ、停滞、無意味、無価値。人生のおいて負の側面と見なされる全てを僕にください。それら全てで僕を完膚なきまでに覆いつくしてください。僕を苦しみに溺れさせてください。なぜならそれは僕をより高みへと追いやるものだから。煩悶や苦悩は、僕に考えることを強いる。だからこそ僕は考えることで、そこを突破できる。つねに高みへと目指してゆける。楽は僕を成長させない。だから僕は苦しみと悲しみを喜んで受けよう。苦しみと悲しみに支配されている間は停滞と呼ばれる。ただ遅延してゆく存在。だからといって落ち込むな。停滞は上昇へ向かうための予備動作だ。とまらなければ思考できない。考えなければ成長しない。苦しみ、煩悶、苦悩、不安、これら全ての感情を僕にください。そして停滞させてください。僕は自らの思考で停滞を乗り越えてみせよう。より高みを目指してみせよう。なによりも自己育成のためにこそ行おう。自己の願望が達成されなくても、自己の人生を全肯定してみせよう。最終的に意味のない人生を肯定するか否かは、自分に委ねられているのだから。




以上、ここ一ヶ月書き溜めた文章でした。論理的厳密さは皆無だし、日本語の体を成していない文章が数多くあり、それ以前に何を言っているのか理解不可能な箇所があっていやになるけど、でも論理や文章の巧さではけして到達し得ない主張もあるのではないかと思う。つまり多少は本質直観した部分があるんじゃなかろうかと自負しているわけだ。まあ突っ込みどころは満載だけど、それを差し引いてもさ。


最近、本が面白くてたまらない。以前より内容を深く理解できいるような気がする。頭の良し悪しが変わったわけではなくて(文章を読めば判りますが、ところどころに知能指数の低さが見て取れますね)、認識的な転換というか、要は気の持ちようが変わったのだと思う。ほんとにそれだけのことで人間は変われる、少なくとも心情的には(約半年ひきこもりやっているけど、今年は留年を確信したけど、だから両親をどう説得しようか本気で悩んでいるんだけど)変われると思う。それだけで本をより楽しく読めるだから万々歳。
あー、でも他人が苦手っては一生変わらないし変えられないでしょう。こればっかりは気の持ちようでどうにかなる問題ではないしなあ。まあ確かに変わればよいとは思うけど、変わらないからといって自分を嫌うことはしない。自分にとって良いことも悪いことも含めた全てに、悲しみ、喜び、怒り、楽しみ、悩み、否定、肯定、欲望その他もろもろに対して然りと答えるだけさ。それでよし、なんだ。僕は自分が好き/嫌いだからさ。
(自分自身の場合はそれでいいだけど、他人が苦しんでいる場合はどうするかってのが今後の課題なような気がする。他人に対しても然りじゃいかんしなあ。日々精進なり。自分の思想をぶっ壊して、立て直して、他の思想と対立させて相対化し、つねにその妥当性を調べる。信念とか確信とかが壊れる瞬間ってすごく刺激的だ。その後でなんか一歩前に進めた気がするし、まあ自己満足かもしれないけど。たとえば自分の脳みそを実験室に見立てるなれば、薬品を試行錯誤して研究したすえに配合を間違えて大爆発、体はぼろぼろだけど気づいたら新薬が完成していて結果オーライって感じかな。自己批判と自己否定は違うのよね。自己批判は実験の一種で、自己否定は自分と他人を一緒に駄目にするんじゃないかと思う。自己批判は前に進むための手段だが、自己否定はそれ自体で満足する、つまり自己を認めることができないから、自己を認められないこと認めて満足する。自己という指針がないことに堪えられないから、目標がなこと自体を目的とする。それは歪んだ自己肯定であり、思考停止に他ならないのではないだろうか。)

あと世界に対して何かをしてやろうとか社会的に認められたいという欲望はあるけど、それが満たされるかどうかは、僕ではなく外部の側に決定権がある。すなわち僕が世界にむけて行為したとしても、影響を及ぼすかもしれないし及ぼさないかもしれない、あるいは自分の存在をすら気づかれずに一生を過ごすのかもしれない、これらの事態は自分ではどうにかして改善できるものではない。それは自分の知らない超越的な世界においての出来事だ。だから僕が出来るのは、見つかるまで自分を磨いて待つのみである。たとえその欲望が一生満たされることがなくても(その可能性がほとんどだ)、僕は人生を肯定するつもりでいる。その覚悟は決めた。本とオタク系文化を消費して人生を充実したものにしてやるさ。全てが然りだ。OKべいべー。人生を肯定できない全ての人間にファッキンライト。
posted by doolittle at 05:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 思考の坩堝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月26日

月詠 16話目

良い話だった。前回で耕平と葉月の関係はぐっと近いものとなったが、僕にとって二人は恋人というより兄妹の関係に当てはめる方がシックリくる。葉月を優しく見守り構ってあげる耕平のお兄ちゃんっぷりに安心するからである。饅頭を取ったカラスに仕返しをする葉月は、やっぱりまだ子供で、男女の関係に進展するほど成熟してないし、また耕平もそいった関係を望んでいない。今回の話を乱暴に要約すれば浩平が葉月の写真を撮るという本当にどうでもいい話であり、同時に二人の兄弟に似た心地い関係とそれを暖かく見守る人々を描いた幸せなお話である(月詠全編に言えるが、外野からの視線がつねに優しいくて安心できる)。いままでどたばたとした話が続いていた月詠で、こういった意味のない日常をありのまま描かれるとは予想外だった。まあ嬉しい誤算と呼ぶべきか。

さっき僕は二人の関係を兄妹みたいといった。でもやっぱりそれはみたいでしかなくて、フリをすることは幸せなことだけど、いつまでも続けることは叶わないくて、ふたりは赤の他人であることはいやでも意識される。撮影を終えて自宅に向かう車の中で、無防備に眠る葉月を見て耕平はその事実を意識せざるを得ないし、葉月もお風呂で似たようなことをエルフリーデに告白する。そういった微妙な関係によって成り立っており、互いに相手を思いやりことが二人の関係を保障しているし、周囲の人々も手助けしてくれる。またアニメの冒頭と終盤で敵の存在をほのめかすシーンを挿入することで、より効果的にたわいもない日常が貴重なものであり、いつまでも続かない終わりのあるものだと示す。終わりの予感を漂わせて、つかの間の平穏な日常をみせるってのは少し技法として卑怯だよなと思うけど、まあ物語のセオリーどおりにあっさり転んで、いつまでもこのどうでも良いアニメを見ていたいと思い、幸せをかみ締めたわけだ。優しい日常にたいして僕は愛しい気持ちを抱いたとさ。そんな16話目でした。
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2005年01月24日

みーの仮想敵

福圓美里新谷良子

理由は聞くな。


posted by doolittle at 01:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヤンマーニ

(`・ω・´)<ンー!?
( ゜∀゜)<ヤンマーニヤンマーニヤンマーニ
(´Д`)<ヤーイヤ!
( ゜∀゜)<ヤンマーニヤンマーニヤンマーニ
(´Д`)<ヤーイヤ!
( ゜∀゜)<ヤンマーニヤンマーニヤンマーニ
(´Д`)<ヤーイヤ!
( ゜∀゜)<ヤンマーニヤンマーニヤンマーニ
ヤーイヤ!
ヾ(゜∀゜)ノ
  (  ) 
 < <


くそどうでもいい話だが、梶浦由記曰く実際はヤンマーニって言っていないんだとさ。残念だ。

これの挿入歌の話ね。

マドラックス役の小林沙苗は、最近ではサクラ大戦5のヒロインにも抜擢され、目を見張るような活躍をみせているが、過去ではピックパイナップルの傑作・顔のない月OVA版に出演し、艶技を存分に魅せてくれた。ヒロインの鈴菜がツンデレ系の見本のようなかわいい娘で、しかもこばさなボイスであえぎまくりのよがりまくりだったから、僕の海綿体に膨大な量の血流が走ったもんさ。艶技自体は少し平淡で物足りないのだが、なんとも腰にくるものがあった。頑張っているのは分けるけど微妙に吹っ切れてない演技が逆にエロさを生んだというか。つまり艶っぽさが足りなくてエロくないんだが、そのエロくなさが喘ぎ声にリアリティを与えてこうぐぐっと屹立してしまった訳だよ。でもこの裏事情は声優界の黒歴史だからここだけの秘密だぞみんな。自分のヰタ・セクスアリスを堂々とネットに開陳するなんてこれぞ本当のオナニー文章だな。あふん。
posted by doolittle at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビ関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月23日

グレネーダー ほほえみの閃士 3話目

シナリオの構造に多少欠陥があっても、テーマ性に上手く物語を落とし込めれば説得力が生まれて結構感動できるものなのだなあ、っと素直に感心しました。面白かったです。次週も楽しみにして待ちます。

このアニメ、ただ乳揺れアニメじゃねえっす。たわわなおっぱいにもきちんと意味があるんですよ。つかんで揉みしだきたいとか、胸に顔をうずめて窒息したいとか頭の悪いことばっかり思ってはいけないよ君たち。まあぜんぶ僕が思ったことなんだけどさ。

おっぱいの意味その一
胸の谷間に挟んだ弾丸を乳揺れの反動で飛ばしてリロードする。名づけてこれおっぱいリロードと呼ぶなり。この製作者の正気を疑いたくなる天才的な発想には恐れ入った。

おっぱおの意味その二
豊満な胸で優しく包み込むことで、敵の戦意喪失や感情を落ち着かせる鎮静剤の効果、あるいは逆に興奮を促すなどのさまざまな効用を持っている。敵味方分け隔てなく効力を発揮する万能おっぱい。一家に一セットは欲しいおっぱいだ。ぼよーん。

いやつまり、僕はおっぱいの素晴らしさを語りたいだけなんだけどさ。おっぱい最高!! 賞賛できるならば、頭の悪いかわいそうな子という不名誉な呼び名も喜んで受けようではないか。


うーむ。我ながら大学を登校拒否してひきこもりをやっている人間の文章とは思えない(衝撃のカミングアウト)。
posted by doolittle at 05:50| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビ関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月22日

なんとなく

深い理由もないのだけれど、なんとなく全ての記事を非公開にしてみた。まあ読むだけ時間の無駄でしょ。

追記。
サイトの景観が寂しすぎで僕の心がむなしくなったので、幾つか無難な記事を復活させました。
posted by doolittle at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月20日

『ef - a fairy tale of the two』を発表したminori

http://d.hatena.ne.jp/moonphase/20050119

minori「ef - a fairy tale of the two.」2005年秋以降発売予定

原作・脚本・監督:御影

キャラデザ・原画:七尾奈留


うわーい、もう一度オリジナルスタッフが関わるDCワールド(の亜流)を味わえると思うと幸せで胸が躍る。まず曲芸のDCメンバーをまんま起用したminoriに拍手を送りたい。曲芸が確立した方法論を恥ずかしげもなく適用するminoriを賛美したい。商業的な成功は約束されたも同然だ。DCのスタッフを使えば(会社としては)うはうは間違いなし。その事実に対して自覚的であろうminoriは、魂胆も丸見えで素晴らしく志しが低い。二匹目のドジョウを狙っていることが明らかだ。いや脚本の御影さんや俺の奈留には全く罪はないのだし、素直にDCスタッフが再集結したことを喜びたいのだけれど、minoriはそれで良いのかしら。良いんでしょう。大人の世界だし。でもここまで明け透けな態度で作品のコンセプトを立てられると、こっちが恥ずかしくなるよね。そんなバックグラウンドは作品自体には無関係極まる事情なので、ゲームは発売日に買いますよ。文句あるか。

きゃんでぃそふと「つよきす」夏発売予定。
強気っ娘ADV。ターゲットはツンデレ少女。物語は『ツン』と『デレ』の2部構成。シナリオ:タカヒロ、原画:白猫参謀。

LOVERSOUL「盗んでmy Heart」春発売予定。
シナリオ:夏葉薫・山本豪志、原画:戌角柾。女怪盗と、その片棒を担ぐ事になった主人公とのドタバタADV。


ここらへんも期待大。タカヒロさんらぶー。薫たんらぶー。キスさせてください。と、頭の悪い感想しか出てこないが、本気で楽しみなんで発売日が待ち遠しい。早く出ないかなー。

ちなみに今日の情報はかとゆー経由ですが、何か。
posted by doolittle at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月19日

応援

http://www.za.ztv.ne.jp/hirasakayomi/index.htm

何も言わず上のサイトを見れ。日記を読め。思い付きを文章化しただけというか、情熱だけでキーボードを叩いているだろうてめえと思ってしまう。文面からは作者の熱いパトスがほとばしっている。無駄に熱すぎる。それが気持ちよすぎる。感じろ。ほんとうにすげえ。この人。すげえくらいに頭がわりい。頭を使えよっと思う。センスはすごいくらいに洗練されていない。すべてがだせえ。もう大好きだ。

doolittleは平坂読氏を誠心誠意応援します。近いうちに小説も読みたいと思います。
posted by doolittle at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月18日

だめぽ

テキストは容易く人の感情を支配します。好きなものを嫌いにさせたり、歴史上の残虐非道の悪人を聖人君子に生まれ変わらせたりするのです。どういうことでしょうか。
たとえば「世界には始まりがないし終わりがない」という命題があります。世界に始まりがあったとするならば、それ以前に無の空間が想定されます。しかし無から有は生じません。だから世界には始まりがないのです。つまり世界は無限であるという結論が導き出でます。
では反対の命題を考えて見ましょう。「世界には始まりがあり、終わりがある」という命題です。世界に始まりと終わりがない、つまり無限と定義したならば、いま私たちのいる現在という時間自体がなくなっていまいます。無限ならば時間が存在はずです。しかし私たちがいまここいることは、自明の事実です。だから世界は無限でなくて、始まりがあり終わりがあります。
ここでは二つの背反する命題が共に成り立っています。両方の命題にもそこそこ説得力があり、どちらも真実と見なせます。
じゃあ実際にはどちらが真実なのか。答えを言えば、どちらも真実ではありません。これは想定した命題そのものが間違っているからこそ起きたパラドックスなのです。つまり答の正否以前に、問いかけ自体が間違っているのです。しかしみなさんはこの間違った命題とその証明を読んだとき、どちらもナルホドねえ程度には納得できたと思います。
これがテキストは容易く人の感情を支配されるという意味です。文章は間違ったものを正しいと錯覚させます。つまり文章の記述しだいで人間の心情を簡単に左右し決定付けます。だからテキストを読んであなたが思い抱いた感情は必ずしも真実とは限らないのです。感じた情動は確かに本物ですが、しかしそれが事実と食い違う可能性を孕んでいることをつねに考慮しましょうね。

この記事の一部削除。
http://tiyu.to/title.html#17_01_19
を読んだら、そのほうが賢明かなと思って。禍の芽は早いうちに摘み取るに限る。まあもともと不用意で悪趣味なことを書いたなとは思っていたのだけれど、にしてもだよ、ネット世界はこわいよ。

ほらちゆを読んだだけで僕の行動が決定された。テキストってすごいね。
posted by doolittle at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑多 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月15日

論理哲学論考 (ヴィトゲンシュタイン)

難しいかなと思って読んでみたけど、笑ってしまうぐらいに当たり前のことしか書かれていなかった(難しいけど)。その当たり前のことを極限まで論理的に突き詰めて、分析し、解体し、いっぺんの曇りもない明晰な叙述によって記してある。その世界のあり方について思考する壮大な論理展開はあまりに完璧すぎる。ケルン大聖堂を思わせるような美しくも圧倒的な論理の建築物。これは完璧な美しさを誇る円だ。思考の限界を解明し尽くし、その果てに現われた球体だ。ここには一つの思想の極限が刻印してある。

しかしヴィトゲンシュタインは自分で作ったその完璧な構築物を『論考』の最後に全て投げ捨てる。「梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない」と言って、論理の限界を突き詰めた過程を、『論考』で構築した完璧な論理を葬り去る。論理的に世界の全貌を描き出した後、彼は「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と言って『論考』を終わらせる。

人間が論理的に思考する限り、けして論理の外にあるものには到達できない。自分の存在を、世界の存在を証明することはできないように。だからこそ、

「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」

んだよ。論理を超越した神秘、それは世界があることそのもの自体なんだね。

食わず嫌いせずに読めい。世紀の名著。世界について語りつくした、スリリングでこの上なく刺激的な思考実験だ。その論理の展開を読み進めること自体が快楽だったな、僕は。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003368916/250-4284301-9425008
posted by doolittle at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 本など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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